NO.232 顔おおい

テキスト:”2コリント3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。”

本日は、「顔おおい」という題でメッセージしたいと思います。
「顔おおいをはずす」とは、何をいっているのかを見ていきたいと思います。
「顔におおいを掛ける」ということばには、KJVでは、「ベール」というこtばが使われています。ベールとは、啓示や、黙示録と関係することばです。黙示録とは、「ベールをはがす」という意味があるからです。

順に見ていきます。

”12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。”

パウロはそのメッセージにおいて、きわめて大胆に語ると述べています。
彼は後の節で、「モーセのように顔おおいをかけたりはしない」と述べているのですから、
要するに奥歯にもののはさまったような、、また何の啓示の光もないような語りかた、
メッセージはしないと語っているのです。逆にその聖書の解釈、メッセージのとらえかた
において、「きわめて大胆に語る」と明白に述べているのです。
 

これは、今の臆病なメッセンジャー達の態度とは大いに異なることをとらえて下さい。
彼らは、キリスト教会の正統な教理とかいわれている教え、(その中には、例の悪霊の教えーキリストの2段階携挙説も入ります。)から一歩でも踏み出すことを恐れ、ただただ、間違いのないように、
ただただ、人から非難されないことだけを追い求めている、神の方だか、人の方だか、
一体誰を意識してしやべっているのかわからない(彼らは人からの栄誉を求めています)小心者のメッセージをあきもせず繰り返しています。彼らは人の評判のみを求めているのでしょうか。

また、彼らは彼らの注解書の内容(その中には、多くの偽りが含まれています)からはみださないよう、戦々兢々としています。その結果、確かに人からは、非難されないでしょうが、ただそれだけであり、神の前にも人の前にも役に立たない説教が生み出されます。

”13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。”

「顔におおいを掛ける」ということばには、KJVでは、「ベール」というこtばが使われています。
ベールとは、啓示や、黙示録と関係することばです。黙示録とは、「ベールをはがす」という意味があるからです。ですから、ここで、この箇所の隠れた意味あいとして、啓示や黙示録に関して語られていることがわかります。ここで、「顔におおいを掛けた(ベールをかける)ようなことはしません」と書かれています。ですから、ベールで隠す、すなわち、啓示や黙示を開かないようなメッセージをしないと語っているのです。裏返すと、パウロがメッセージをするなら、多くの啓示の解きあかし、解釈がその中に伴っていたことがうかがえます。これは、今の時代の教会のメッセージからはなくなって久しいことがらです。

14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。”

この「思いは鈍くなる」ということばは以下の「心をかたくなにされた」ということばと同じです。

ヨハネ12:40”「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」”

イスラエルの人々の心はかたくなになり、正しく「ことばは神」であるといわれた方を理解することができなかったのです。

”というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。”

古い契約とは、英語では、old testamentと記されています。ですから、他でも無いこ
れは、旧約聖書のことをいっているのです。ですから、このことばは、「旧約聖書が語られる時、神の民におおいがかけられている」そのため、正しく理解できない、そのことを述べているのです。しかも「今日に至る迄」すなわち、
この平成の時代に至るまで、私達は、おおいかけられた状態で、旧約聖書を読んでいる、そのことを述べているのです。

ですから、この箇所は、今の我々に対して、旧約聖書の読み方について実は述べているのです。
今のクリスチャンが旧約聖書を読まないわけではないでしょうが、しかし、その読む時、ヘールがかけられ、啓示が開かれていない、そのことを指摘しているのです。

モーセに顔おおいをかける時、その顔の光は外へ出ていきません。その光はとどめられるのです。
同じように今の時代の私達も「顔おおい」をかけて旧約聖書を読んでいるので、その啓示の光は、
決して外へ輝き出さない、そのことをいっているのです。
そして、このことは、「今に至る迄」と書いてあるように現在まで、そうなのです。

例えば、私達が、旧約聖書でアハブ、イゼベル、エリヤについて読みます。
その時、それらの記事を読んで、「昔のイスラエルの悪王、悪女の話」としか読めないなら、
実は、我々の「顔おおい」は取り除かれていないのです。ベールがかかった光の来ない状態で、我々も旧約聖書を読んでいることになりるのです。

さて、聖書の中で「ベールをはがす」ことと密接に関係した書があります。
それは、他でもない「黙示録」です。この書の原語の意味は「ベールをはがす」という意味なのです。
そして、この「ベールをはがす」ということばこそ、この黙示録の性格をはっきりと示すものです。

この聖書の最後にある、論議をよくよくひき起こす書、「黙示録」とは一体何の意味あい、目的があって、書かれたのでしょう。主はその書の目的、意味あいを「ベールをはがす」ということばで、はっきりと明言しています。

ですから、この書に関連して主が語られているのは、このようなことです。

聖書、特に旧約聖書は、「ベールのかかった」書、深い意味あいが隠された書なのです。
しかし、この書のベールがかけられたままでいるのは、主のみこころではありません。

それで、これらの旧約聖書を始めとする書の「ベールをはがす」ことを目的として、神は、
一つのヒントの書、ベールを剥がすことの助けとなる書を最後に用意されたのです。
それこそ、聖書66巻の最後の書、「黙示録」なのです。この書の名前「ベールをはがす」ということばが何よりもそのことを明白に語っています。

しかし、今の時代、一つの問題があります。このせっかく神が用意された書が「神の子達」の目を開くのに役立っていないということです。
この書がちっとも彼らの助けになっていない、本来の目的どおり使われていないとい
うことが問題なのです。たとえば、昔の電話器の使用方法は非常に簡単でした。
ただ、番号をダイヤルするだけでよかったのです。
しかし、最近の電話器は、Fax付きやら、留守番機能やら、色々と複雑です。
ですから、お年寄りなどは、かえってつかいこなせなくなっています。せっかくの機能に追い付かないのです。

黙示録についても同じことがいえます。この書は聖書の「ベールをはがす」ための書なのですが、その本来の目的どおり使われていないのです。

さて、その「ベールをはがす」とは具体的にはどのような意味あいで使われているのでしょう。それを見ていきたいと思います。

たとえば、黙示録の7つの教会の一つ、テアテラの教会の記述の中に、上記イゼベルについて書かれています。

「ヨハネの黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」
 

教会時代への預言である、黙示録の中に「イゼベル」についての記述があるということは、
この旧約のベールを剥がす一つのヒントになります。

「旧約は昔のこと。現在や未来の教会時代とは直接は関係ない」と皆思い込んでいます。しかし、この黙示録の記述は、この先入観、あやまった
教会の教えのベールを剥がすヒントになります。

新約の教会の預言である黙示録の中に旧約のイゼベルについての記述があるということは、「もしかすると、
旧約聖書の記述は、新約の教会時代を預言したものなのではないか」と我々の目を開くヒントになるのです。また、イゼベルは、旧約聖書を読めばわかるように、北イスラエルの王アハブの妻です。
「北イスラエルの王や妻と関係ある記述がテアテラへの手紙の中に含まれているということは、このテアラはローマカソリック、の予表ではないのか」と我々の目から、ベールを取り除く働きをするのです。このようにして、この書は我々に「ベールをはがす」助けを与えます。

”16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。”

私達の旧約聖書に対する、「顔おおい」すなわち、ベールはどうしたら、はがすことができるのでしょう。
また、どうしたら我々は、神から啓示の光を受けることができるのでしょう。
それは、私達が「主に向く」時、はがれるです。啓示の光は、注解書、人の教えからではなく、主から来るのです。
 

”17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。”

主に向くとは、具体的には、私達が御霊なる方を求め、向くことです。
すなわち、この旧約のみことば、また新約のことばに対しても、「御霊」である方に求め、
尋ねていくのです。聞いていくのです。その時、人の知恵にまさる神の知恵により、この隠された
ことばが開かれていくのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー