No.230 ふたりか三人の証人(2)

 

”テキスト: 2コリント13:1 「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実(word-レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」
2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

本日は「ふたりか三人の証人(2)」という題でメッセージしたいと思います。
神が終末に裁きが起ることを前もって、2、3の証人を通して語っていること、その後に裁きが来るということを更に、見ていきたいと思います。

聖書は「ある人が有罪であるかどうか」という時、「二人または3人の証人の証言によって有罪となる」
という原則を語っています。以下に書かれている通りです。

「申命記17:6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」

例えば、ある人が「隣人を殺す」というような死罪を犯した時、聖書は一人の証人の証言のみによって
裁きを執行してはいけないと語っています。逆に2、3の証人があれば、それは「有罪」となることを語っているのです。

それで、神が裁きを執行、まして終末の大きな裁きの前には、「ふたりの証人または三人の証人の証言によって」行われることがわかるのです。

さて、旧約の証人に関する記述を見ると、我々にはこれらの証人は皆、横の関係で現れるように見えます。横とは、すなわち、例えばペテロ、ヨハネ、ヤコブのように同時代の証人ということでしょう。
ペテロという一人の人だけでなく、ヨハネ、ヤコブという2人または3人の証人が加わって始めて、裁く対象になるということです。

しかし、上記テキストでパウロが「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です」と語った時、彼はこの「ふたりの証人または三人の証人の証言」ということばに関して少し違ったことをいいました。

ここで彼は、彼の「3度目の訪問」に関して、「三人目の証人」だといっているのです。ですから、彼はこの「ふたりまたは三人の証人」ということがらを縦の関係、または時間の関係に関して語っていることがわかります。
ですから、パウロの一度目の訪問は一人目の証人であり、2度目の訪問は2人目の証人であり、3度目の訪問は3人目の証人であると語っているのです。その上、彼は三度目の訪問に関して、「前から罪を犯している人たち」に対して「今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」といいました。
すなわち三度目には裁きがあることを語っているのです。

まとめます。以上のことから、聖書は「ふたりまたは三人の証人」に関して、以下のようにいっていることがわかります。

1. 「ふたりまたは三人の証人」とは基本的に2、3回にわたる異なる人を通しての証言、警告について語る。

2. 「ふたりまたは三人の証人」とはまた2、3回にわたる時間をずらした証言、警告について語る。

3. 「ふたりまたは三人の証人」すなわち2、3回にわたる証言、警告の後で「裁き」が行われる。

上記のことがらを聖書は「終末の裁き」に関しても語っていることを覚えて下さい。

聖書を読むとこの原則は確かに用いられており、このことがらはまさしく聖書がはっきりと明示している「裁き」の原則であることがわかります。
たとえば、終末に起きる「宮の崩壊」について考えてみましょう。
「神の住まい」である「宮」すなわち教会が終末の日に見捨てられるということがらに関して、聖書は確かに前もって「ふたりまたは三人の証人」を通して語っています。

この件に関する一人目の証人、すなわち一回目の証言は以下のダビデの証言です。

「詩編78:59 神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。
60 それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、
61 御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた。」

このシロにおける神の住まい、幕屋が捨てられたことに関して、ダビデは証言しているのです。
そして事実この「神がその住まいを見捨てる」ということがらは神の民の中でシロで実際に起きました。
これは歴史的な事実なのです。

この件に関する2人目の証人、すなわち2回目の証言は以下のエレミヤの証言です。

「エレミヤ7:14 それで、あなたがたの頼みとするこの家(宮)、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行なおう。
15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたを、わたしの前から追い払おう。」

エレミヤは「神の住まい」である宮が見捨てられること、その崩壊について証言したのです。
そして、このエレミヤの証言もその通りに成就したことを私達は知っています。
バビロンのネブカデネザル王の攻撃の中で宮は焼かれてしまい、捨てられてしまったのです。(エレミヤ52章)興味深いことにこのエレミヤの「宮の崩壊」に関する記述の中に「シロの神の幕屋の崩壊」について言及されています。すなわち、シロで起きたこととこのエレミヤの宮の崩壊とは関係があるのです。
すなわちこれらは同じシリーズ、ひと続きの証人達なのです。

更に同じ「宮の崩壊」に関して主イエス御自身が警告しています。これは3回目の証言です。

「マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

ここでの主の語る「宮の崩壊」に関しては、2種類の成就があります。
一つは西暦70年のローマ軍のエルサレム攻撃の時、成就しました。そして、もう一つはここに「世の終わり」と書かれているように終末の「宮の崩壊」すなわち「教会の崩壊」のことです。これは終末に成就します。

さて、以上のようにこの「宮の崩壊」の証人、証言に関して考えるなら、すでにその証言は2ー3回にわたって、前もって警告され、しかも成就していることがわかります。
すなわち、シロの幕屋が捨てられることも前もって語られた通りに成就し、エレミヤの語った「宮の崩壊」もその通りに成就し、また主の語った「宮の崩壊」もその最初の成就は語られた通りに成就したのです。
後は終末の「宮の崩壊」の成就を待つだけなのです。

繰り返しますが、聖書は、人が裁かれる条件として、「ふたりまたは三人の証人」の証言という原則を語りました。これは聖書の原則であり、また神の方法なのです。

たとえばある人が「隣人を殺した、有罪だ」と訴えられた時、聖書は一人の証言、たとえば、ペテロの証言だけで有罪としたり、死刑にしたり、裁くようには語りません。それだけではまだ、間違えがあるかもしれず不確実だからでしょう。もしかすると最初の証人、ペテロの勘違い、彼がそう思っても犯人を他の人と見間違えるということもあるからです。

しかし、一人だけでなく、他の二人目、また3人目の証人、すなわちヨハネ、ヤコブという他の証人、証言が現れてくるなら、その時には「有罪」であり、「裁くに足りる」と聖書は語るのです。聖書は決して有罪とするのに、四人目、5人目の証人が必要だとは語っていません。逆に「2、3人の証人」があらわれるならこれは
「裁くに足りる」と語っているのです。そして「宮の崩壊」に関しては「ふたりまたは三人の証人」の証言は既に与えられているのです。

終末の裁きに関しては色々な面があります。本日はただ「宮の崩壊」「終末の日に神がその住まいである
教会を見捨てられる」という面だけを見てみました。
そしてこの訴えに関して、「異なった人を通した2、3の証人の証言」「時代の異なる2、3の証人の証言」は既に与えられていることを私達は見るのです。

ですから、これらの「2、3人の証人」を通して語られた宮の崩壊、教会の崩壊は確かに終末の日に起きることを私達は理解できるのです。

さて、以上のように「2、3人の証人」について理解できると私達は何故、黙示録には終末の証人について記してあるのかがわかってきます。

”ヨハネの黙示録 11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。”

彼らは終末の神の民に「来らんとするさばき、教会(宮)の崩壊」について証言し、そしてそのゆえに「このことばを受け入れない」神の民に殺されるのでしょう。かつて、「宮の崩壊」について語り、その故に迫害されたエレミヤ、主イエスに対して行ったと同じように終末の神の民は、彼らは行うのでしょう。

しかし、私達にあってはこのことに関して正しく理解し、みこころをとらえていきたいと思います。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー