No.229 ふたりか三人の証人

”テキスト: 2コリント13:1 「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実(word-レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」
2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

本日は「ふたりか三人の証人」として神が終末に起きる裁きについて前もって、「ふたりか三人の証人」の証言を通してそのことばを確証していることを見ていきましょう。

聖書の終末の記事を見ていてわかることは、神は将来、終末の日に起きることを前もって、
1ー2回、類似のできごとを通して警告しているということです。
話が少し抽象的でわかりずらいかもしれません。たとえば、終末の黙示録で記されている「蛇」ということばについて考えてみます。すると以下のように神がこのことに関して、前もって2回は起きたできごとを通して、証言、警告していることがわかります。

1 エデンの園で神のことばを曲げ、エバを惑わし、命の木(永遠の命を象徴するもの)から遠ざけてしまった蛇。

2 イエスの時代にはパリサイ人、律法学者が蛇と呼ばれます。彼らは神のことばをあずかりながら、それを曲げ、人々が天国へ入ろうとするのを妨げていると主に非難されています。

さて、上記2つは過去のことがらです。しかし、事実おきたことであり、「蛇がことばを曲げる」「天国から人々を遠ざける」という事実の2つの(2人)の証言です。
さて、我々にとって大事なのは、これからの未来のことであり、また終末に起きることがらです。
それを理解するには、上記テキストの「ふたりか三人の証人の口」ということばに目をとめることが大事です。すでにこの「蛇」という「ことがら」(ことば-
レーマ)には、2つ(2人)のはっきりした証人がいます。それで、未来の終末に起きる3つめのことがらについてもそのことばの通りに、おきることが予想、また確信できるのです。

3 3つめのことがら(word)
として、聖書、黙示録には、「蛇」についてこのように書かれています。

”黙示録12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。”
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

これは、終末の日に蛇、すなわち神のみことばを曲げる人々が地上に落とされ、
もう天(神のみこころの教会)の中で活動することができなくなることを述べています。
このことは未来のことです。果たして、このようなことは、実際に起きるのでしょうか。
本当にそのようになるのでしょうか?この黙示録などという、少し怪し気な本のことばを本当に
信じていいのでしょうか。

そのような疑問が起きたとき、私達を力付けるのが、「証人」のことばです。
すでにこの、「蛇」については、2人(2回)の証人がおり、それらは、文字どおり
行われました。それを見ていくとき、私達は三度めの未来のことがらも確かに実現することを
知るのです。2つの証人とは、すなわち「蛇」に関するエバの時のできごと、そしてもう一つは
イエスの時代の「蛇」なる律法学者、パリサイ人達との間に起きたことです。これらは、
確かに実現し、エバは蛇にだまされた結果、エデンの園を追い出されたこと、永遠の命を失ったことを
私達はみます。また、蛇なる律法学者、パリサイ人はイエスが誰だかを理解することができなかったことを見ます。これらの過去のできごとは、確かに「蛇」ということばの証人です。そして、このように
2人の証人(できごと)が事実なので、私達は逆に未来の黙示録に起きる「蛇」に関するできごとも
事実であると確信を持つことができるのです。ですから、ここにおいて、確かに「2、3の証人」により、事実(ことば)は、確認されたのです。
 

さて、それでは記テキストについて見てみましょう。

私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。」

ここでパウロがコリントの教会を既に2度は訪問していることがわかります。これは、(この時点では)
過去のことです。そして、これから三度目の訪問をすることを述べています。これは、(この時点では)
未来のことです。2回は過去のことであり、3回目は未来のことなのです。
そして、彼はもうすでに2度の訪問で、具体的にいうべきことはいった、ことばでの警告は行ったといっているのです。そして、3度目の訪問は特別な意味あいがあると彼は述べているのです。それは裁きを意味します。

ですから、どうも聖書の方法は2度の警告、そして三度目の未来には、決定的な裁きというパターンのようです。
例えば以下のように:

(宮の崩壊)
1 シロの幕屋(宮と同じように神が住まわれる住まい)の崩壊
2エレミヤの時代の宮の崩壊
3 キリストのいわれた終末の日の宮の崩壊

三度目の「宮の崩壊」は終末の日の教会の裁きの予表であり、この日への警告があります。

”すべての事実(ことば:レーマ)は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」”

すべての事実が確認されるという時、第一義的には、このコリントの教会の実体をパウロが確認するということをさして語っているのでしょう。しかし、ここには、2重の意味あいがあります。上記「事実」という単語には英語のword,ギリシャ語のレーマが使用されています。ですから、ここで聖書は、実は、「ことば」が「ふたりか三人の証人の口によって確認される」ことを語っているのです。ですから、神の語られたことばは単に、語られるというのではなく、2、3の証人により、確証されるのです。これは何を意味しているのでしょう。

たとえば、黙示録には、みごもった女から、うまれる男の子について書かれています。彼らは終末の日に処女(淫婦バビロンとは反対に)から生まれる勝利者のことです。確かに神のことばはそう語っています。」しかし、これは未来のことであり、ある人々にとっては、はっきりとしないかもしれません。しかし、
神はこのことがら、「女から生まれる男の子」について、2、3の証人により、確証されます。
 

たとえば、その一つとして、「処女がみごもって男の子を生む」と聖書は述べています。
このことばはイザヤの時代に成就しました。

イゼヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
これがこの「ことば」に関する第一の証人です。

そして、御存じのように、母マリヤによるキリストの出産の時、成就しました。これが第2の証人です。
これらの2つの証人によリ終末の黙示録に記されている「男の子」も事実であることを確認できるのです。

”2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。”

さて、パウロは自分の三度目の訪問に関して、特別なことを述べています。この訪問の時には(以前と違って)容赦しないと述べているのです。この訪問がいわば「前から罪を犯している人たち」への「裁き」の時となるわけです。
ですから、ここで表される原則はこうなります。

1、2回目:警告、証言
3回目:罪を犯している人への容赦しないさばき

この原則は実は、パウロ個人のことをいっているのではなく、聖書全体の原則です。
他のケースにおいても上記のスタイルは守られています。上記の「宮の崩壊」に関しても、
以下のようになるのです。

1: シロの幕屋(宮と同じように神が住まわれる所)の崩壊: 警告、証言
2: エレミヤの時の宮の崩壊:警告、証言
3: キリストのいわれた終末の宮の崩壊。
すなわちマタイ24章でキリストが弟子達にいわれた「宮の崩壊」:
この時、罪を犯している人々(含むクリスチャン)への容赦のないさばきがある。

”3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。”

ここでパウロは、何故自分が2、3回訪問するのか、すなわち、別のことばでいえば、「2人または
3人の証言」を必要とするかを述べています。それは、「あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。」このことは、終末のことばにも通じます。
終末のことば、たとえば、黙示録の「山が海に投げ込まれる」、「海が血に変わる」等のことばに関して、全ての人がその通り起きると信じているわけではありません。
逆に「黙示録は狂人が書いたものだ」「これは、聖書の一部としてはふさわしくない、第一キリストがこのようなことをいうとは思えない」などという人々がいます。彼らはこの書に関して「キリストが...語っておられるという証拠を求めている」のです。その答えが2人、または3人による証言なのです。
これらのことばは、実はすでに黙示録以前の聖書の歴史の中で語られ、実現してきたのです。1、2度、
前もって実現しており、黙示録においては三度目になるのです。もちろん、黙示録と全く同じ形でとは、いえないのですが、しかし前もって実現しているのです。

これらの警告をとらえ、終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー