No.228 真夜中のパン

テキスト:”ルカ11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”

本日は、「真夜中のパン」という題でメッセージします。

上記テキストには、友達のために真夜中にパンを求める人のことが書いてあります。

さて、終末の日は、夜、闇、にたとえられていることを思い出しましょう。
それで、このたとえも終末に関係あるたとえである可能性があることがわかります。

テキストに沿って見ていきましょう。

”5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。”

この箇所の主題は、「パン」です。パンとは、聖書の中で、「命のパン」、神のことばをさすたとえです。
さて、ここでの問題は、この人の家には、パンがなかったということです。
いくら友達が夜中に来たからといって、2つや3つのパンがないなんて、随分用意の悪い家だなと思うかもしれませんが、この「夜中にパンがない」という事実が、このたとえの中で、大きな意味のある強調点となっています。

終末の時代に関して、我々がどう思うと思うまいとこの時代は、「パンのない時代」「ききんの時代」
であると聖書は語っています。

黙示録にはこう書かれています。

黙6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。”

1デナリとは当時の労働者が一日に稼ぐ賃金ということです。今だったら、1万円以上に相当するのでしょうか。それだけのお金をもってしても小麦、1ます(1リットル程)、大麦3ます(3リットル)しか、買えないのです。麦はパンの原料であり、みことばのききんが連想されます。
それを裏ずけるように、その後の節に「彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた」というように、ききん、みことばのききんについて語られています。

黙示録の時、終末の時は、ききん、みことばのききんの時であることが暗示されるのです。

アモス書にはこのききんの時代に関してこう書かれています。

アモス8:11 見よ。その日が来る。「「神である主の御告げ。「「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”
13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

この終末のききんは、パン、聖書がないというわけではなく、「主のことばを聞くことのききん」すなわち、「メッセージを聞くこと」のききんであることが、了解されます。

どの牧師のメッセージも毒されてきて、それを聞く信者にちっとも力がわいてこない、歩めるように
ならない、そんな時代が来ると聖書は語っているのです。

私は失礼ながらいいますが、今、現在の時代にこのことは、完全にとはいわないまでも、
おおきな規模で成就しているのではないでしょうか。今は、教会、クリスチャンが弱った時代です。
この原因は、今が「ききん」、すなわち、パンや水に不足している時代であることを
明確に表しているのではないでしょうか。

”7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』”

ここで「戸締まりもしてしまった」といわれている言葉は以下のことばと同じです。

”ルカの福音書 4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が<閉じて>、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが”

エリヤの時、3年半の間、天が閉じました。そして、雨が降らなかったのです。
人々は、食べるパンにも水にも窮しはじめたのです。その様な時でもこのツアレフアテのやもめには、
粉(麦の粉ーパンの材料)も油(聖霊のたとえ)もつきなかったのです。
同じように、この真夜中にパンを求める人は、ききんの中で主にいのちのパン、水を求める人の型です。
そして、この求める人に対して、始めに戻ってきた答えは、「面倒をかけないでくれ、門は閉じた(戸閉まりをした)」という答えです。

「起きて、何かをやることはできない。」とはっきりこの家の主人は答えています。ですから、今は、基本的に門は閉じられ、パンも水もない、ききんの時なのだということをとらえて下さい。パンがなく、水がなくて普通なのです。テサロニケの手紙にあるように今は、「引き止める者」聖霊が取り去られている時代なのです。

”8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

しかし、このききんの状況、パンを与えることを拒絶した主人のことばをひっくり返す方法があります。
それは「あくまで頼み続ける」ことです。
ですから、このききんの時代にパンと水、すなわち、みことばを受け、聖霊に触れ、養われることの
できる人々の条件は唯一つ、祈り、祈り、そして祈りなのだということを知って下さい。
この祈る人々こそ、「あくまで頼み続ける」人々なのです。

"
9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。"

私達に神のみことばがない、また、礼拝に人々が来るのに、飢え渇いている人がいるのに、自分には、
何一つ出してやるものがない、パンの一つさえない、それは残念な状況ですが、決して絶望する必要はありません。
そもそも私達は始めからパンなど、何も持っていないのです。
荒野のマナが天から降ったように、我々もこのパンを天からもらうことができないなら、どこにも見い出すことはできないのです。それは、始めからそうでしたし、これからもそうなのです。
もし、我々が何か違うように考えていたのなら、それは我々の勘違いなのです。

ですから、私達が「求め、さがし、たたく」なら、これを受けるでしょう。それは、具体的には、祈ることなのです。天からのパン、水を「求める人」はそれを受けます。そうでない、何か人間的なものでとどまる人は、受ける事はないでしょう。

10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。”

もう一度求める事が、繰りかえされています。私達は「ききん」だと手をこまねいていないで、
求め、さがし、そしてたたかねばなりません。

”11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。

蛇は、エデンの園で神のことばを偽りに変えた蛇、また主イエスにあ「蛇よまむしのすえよ」と非難された神のことばを変質させる、律法学者、パリサイ人、そして今、偽りの神学を人々に与える神学者、
牧師、教師に通じます。

彼らがこんな「蛇」のような「たべもの」、神のことばを変質させたメッセージで、信者達の飢えを満たそうとするのは、彼らが、この方に真に求め、天からのものを受けないからです。
神の子達が、「蛇」のたべもので飢えを満たすのは、神のみこころではありません。

”12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。”

さそりは悪霊に関係しているようです。ですから、神の子達が教会へ来ながら、「悪霊の飲み物」で飢えを満たすのは、やはり神のみこころではありません。これは、真の天の父からのものではなく、
この世の父、悪魔からのものです。

ですから、今の時代、人々の飢え渇きを満たすための「メッセンジャー」が何と求められていることでしょう。主に示された人々はこの奉仕について祈り、求めましょう。

”13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」”

ここでも求めることが強調されています。ですから、たとえ、艱難時代であろうとなかろうと、またききんであろうとなかろうと、私達がこのパンと聖霊を求める方法はただ一つ、求めること、
具体的には祈ることだということがわかります。

ここには、何らの差別もありません。能力、性別、人種、年令
何の関係もないのです。

求める者はこの方から、受け、そして友人の飢えを満たすことのできることを覚えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー