No.227 パンのききん

 

”テキスト:アモス8:11 見よ。その日が来る。「「神である主の御告げ。「「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”
13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。
14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

本日は「パンのききん」としてアモス書から見ていきましょう。

順に見ていきます。

”11 見よ。その日が来る。「「神である主の御告げ。「「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。”

この終末のききんは、パンのききんではありません。ですから、共産主義国であるように、聖書そのものが手に入らない、そういうききんのみをさすものではないのです。逆に「実に、主のことばを聞くことのききんである」と書かれています。ですから、主のことばを聞くこと、すなわち、教会の礼拝メッセージ、説教について語られているのです。

「どこの教会でもりっぱなメッセージがある。何がききんなのだ」という人もいるかもしれませんが、
しかし、私の見る限り、多くの人がこのききんの中にいます。

どんなにお腹がすいて、今にも倒れそうな人でもパンを食べれば普通は元気になり空腹が満たされます。
力が出てきて、足取りも軽く、元気になるものです。しかし、今の教会において、何故弱っている人、力のない人、満たされない人が多いのでしょうか。
これこそ教会において「みことばを聞くことのききん」があることを示すのではないでしょうか。

たとえば、現在でもインド、アフリカ等でよく「ききん」が起きます。それらのききんの中にいる人の特徴はなんでしょうか。体がやせていて、まともにあるけなかったり、生きているのか、死んでいるのかわからない、そんな感じではないでしょうか。

そしてこれは、今の日本の教会にも起きていることではないでしょうか。私達の肉体は弱っていないとしても、その霊において弱っており、教会をききんがおおってはいないでしょうか。
 

神のみことばに問題があるわけではありません。聖書のことばは、主イエスの時から何も変化はないからです。しかし、今、多くのメッセンジャーのメッセージに関して「みことばを聞くこと」に関するききんがあると聖書は語っているのです。

私達は、この声に謙虚に耳を傾けなければなりません。全てみことばに仕えるものは、祭壇の前で、主の前に泣いてそのあわれみを求めるべきではないでしょうか。ききんは、まさに私達の教会をおおい、この民をおおっているのです。

”12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。”

彼らは主のみことばを探しもとめます。「しかしこれを見いだせない。」のです。
確かに今は、この預言が成就しています。多くの信者があの教会、この教会、そして、あの集会、あの聖会へとさまよい歩いているのを見ます。
「信者は、あちこちの教会を歩き回るな。それは、信仰的でない。」などという牧師もいるかもしれません。しかし、彼らは「いのちのパン」を求めて歩き回っているのです。

腹が減って、ラーメン屋を一生懸命さがし回る人はよくいます。しかし、ラーメン屋で食事をした後、
さらに他のラーメン屋や、そば屋へ向かう人はいません。最初の店でたっぷり食べた人は、もうとりあえず食事やパンのことは忘れます。そして、他のこと、勉強のことやら、音楽のこととかを考え始めるものです。

しかし、教会においては、そこで満たされず他へ向かう人々がいるのです。
教会へ来ている人がなおかつ、遠くの集会や、聖会へ行くということは、実は、その店(教会)で、
食べるべきものを食べられなかったからかもしれないのです。
いちがいに信者が非難されるべきだとは限りません。そして、彼らの「飢え」は、このようにさまよい歩いても満たされません。「しかしこれを見いだせない。」と書かれている通りです。それは、今がまさに、「ききん」の時代だからです。

”13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。”

その日は、終末の日です。「渇き」は、 水、すなわち、「聖霊」と関係することばです。
この終末の日、多くの神の民は、単に「みことばを聞くことのききん」に会うだけではなく、「渇き」すなわち、聖霊の「水不足」にも会います。

彼らが、主のことばを退け、また聖霊なる神を「追い出す」ためにそのような時を迎えるのです。
人間にも、幼児期、青年期、老年期等の時期があります。そして、その中でも青年期は、男でも女でも
一番力と美しさに満ちた時です。しかし、そのような力に満ちた青年期の信者達でさえ、
その日には、「渇きのために衰え果てる」のです。
今がその時なのではないでしょうか。私は多くの人々が、その内側に霊の渇きをおぼえ、
衰えているのを感じています。

”14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」”

「サマリヤの罪過にかけて誓」う人々は、サマリヤの教理、教義を受け入れている人々です。サマリヤは、北イスラエルの首都、今でいうカソリックの予表と思われます。
彼らがその罪科にかけて誓っている間は、「倒れて、二度と起き上がれない」のです。

プロテスタントと比べて見ると、カソリックの特徴は、「ローマ法皇、マリヤ礼拝、66巻以外の聖書(外典)等」です。これらを彼らは誇っているかもしれませんが、それは、「罪科」であると主はいわれるのです。

そして、彼らが、霊的に飢え、渇くーそれを満たすため、人によっては、仏教やヒンズー教まで行くようですがーその原因は、この「罪科」のゆえだと主はいわれるのです。
 

裏返すなら、これらの「罪科」を捨て去る人々は、この「ききんの時代」にあっても、
うえることなく、かわくことがないのです。

あの「サマリヤの罪科」の満ちあふれた時代、すなわちアハブ、イゼベルのバアル礼拝にあふれた時代、
そしてエリヤの3年半の「雨の降らない期間」に、ツアレフアテのやもめのみ「パンと油」にうえることのなかったことを思い出しましょう。

終末においてであっても、ききんは、主につく人々をおそうことはありません。
このことを聖書は繰り返し、述べています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー