No.220 全てのものを偽り者としても

テキスト:"
ロマ3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことば(ロゴス)によって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。"

本日は「全ての者を偽り者としても」という題でメッセージします。

聖書を何度も繰りかえして読むとわかってくることは、聖書の中を一貫して流れている主張は、「神のことばはどんな時でも、正しい」という考え方です。これは、考え方というより、聖書に記されているあらゆるできごとの中に一貫して流れる真理、事実です。

例えば、神がモーセに対して、「私があなたを用いて私の民をエジプトから引き出す」といわれた時、
口下手なモーセがためらったにもかかわらず、このことばはまさに成就しました。
神が「いなごが来る」とエジプトに対して語った時、それはその通りになりました。
また、「初子が打たれる」といわれた時もその通りになったのです。

どのように人の目には難しく、ありえないことがらでも、神が語られたなら、そのことは必ず、成就する;
これが神が聖書を通して我々に繰り返し、繰り返し語られていることがらなのです。

さて、このことは、いつの時代においても変わらない真理なのですが、終末の日にとりわけ意味のある真理となります。

何故なら、終末の日には、神の民が偽りに惑わされ、神のことばの真実に疑いを投げ掛けたり、
不信な者たちになるからです。
例えば、カソリックでは、「聖書とともに、歴代の聖徒達の文書にも同じような価値を認める」ということをきいたことがあります。要するに真理は不変というより、時代とともに変わると言う考えです。聖書もそうなのだ、不変ではないと彼等はいうのでしょうか。
もし、それが本当なら、とんでもない冒涜ですが、しかし、これらの不信、冒涜のまっただなかにおいて、
実は、神のことばのみが真実であったことが分かる日がきます。それが終末の日なのです。

テキストを見ていきましょう。

”4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことば(ロゴス)によって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。”

「全ての人を偽り者としても、神を真実なものとする」ということは、要するに、神のことばと、
他の全ての人(含クリスチャン)の意見とが異なる日が来るということです。
そして、我々はこの2つのものの間で、それこそ究極の選択をしなければならない日が来るのかもしれません。

そんな日は来ない方がもちろん良いのですが、しかし、このようにわざわざみことばに書かれている以上、そんな日が来る可能性はあります。
そして、私の理解が正しければ、もう既にその日は来ているのではないかと思っています。

例えば、聖書ははっきりと終末の日に、「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と記しています。
このエルサレムが、今の中東のイスラエル国の首都エルサレムをさすと断定できるなら、まだ「そのことは起きていない」といえるでしょう。しかし、主は終末のみことばに関連して明らかに「たとえ」について述べられました。エルサレムのたとえの意味は、黙示録に「花嫁エルサレム」と書かれているように、
「教会」をさしています。ですから、この箇所のたとえの意味あいは、「教会が終末の日に異邦人、神を信じてはいない人々、今でいうクリスチャンでない人々に踏み荒らされること」について語っているのです。

「教会が異邦人、クリスチャンでない人々に踏み荒らされる?そんなばかな」と思うのはもっともですが、
しかし、聖書のことばがそう語る以上、少しはそんなこともあるかと考えてみる必要性があると思われます。

そして、このことはまさに成就しており、今の教会の現状は、角笛に述べられているように、カソリック、福音派、カリスマ派等、多くの教会のトップは、悪魔的な人々に占められてきたようです。
何年か前、英国国教会トップのカンタベリー大司教が、「もう私はキリストの復活を信じない」といったということをききました。このことばは、信仰の根幹と関係する非常に重大な発言です。
何故なら、聖書は明らかに「復活の信仰」が救いと関係があることについて語るからです。

”ロマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。”

このみことばに基づけば、この「復活を信じない」と公言する人、カンタベリー大司教は救われていないということがわかります。救われていなければ、クリスチャンではないし、今のことばででいう未信者、聖書のたとえとしては、「異邦人」です。

また何千万という信者を擁する英国国教会のトップが「復活を信じない」と公言するなら、
その下にいる多くの人が惑わされて、「復活の信仰」を投げ捨て、結果として
救いから外れていくでしょう。
まさにこの教会(エルサレム)は、「異邦人に踏み荒らされて」いるのです。

うがったみかたをすれば、そのようなことをいう人々は、そもそもエルサレム(教会)を踏み荒らすために意図的に送られてきた異邦人(クリスチャンではない人)なのかもしれません。

このように「エルサレム(教会)が異邦人に踏み荒らされる」ということばは、私達の目の前に成就しています。
それなのにこの事実が、見えないのは、神のことばよりも、我々が我々の回りの「全ての者」、すなわち、教会の牧師、教師、信徒の常識を「神のことばより正しい」としているからかもしれません。すなわち、このように語られた「神を偽りもの」としているわけです。

また、テモテ書に「終末の日に、人々が悪霊に惑わされ、悪霊の教えに心を奪われる」ことが記されています。この神のことばも実は、私達の目の前で成就しているのです。

マリヤ崇拝は、人々の信仰をキリストから離し、他の霊に導くため、非常に効果のある「悪霊の教え」であり、血を流すマリヤは悪霊のしるしです。また、2段階携挙説、艱難前携挙説は、クリスチャンの終末の備えを崩すために終末に特別に用意された「悪霊の教え」です。

しかし、それがたとえ事実であっても、例えばカソリック教会へ行って「マリヤは悪霊です」などといったら、どうなるでしょう。私はカソリックのことはあまりよく知らないのですが、やっぱり、猛反発を受けたり、場合によっては、その人は、教会を追い出されるのかもしれません。
プロテスタントで、「2段階携挙説、艱難前携挙説は悪霊の教えだ」などといったら、どうなるでしょう。
やっぱり異端扱いされたり、場合によっては教会や神学校から追い出されるかもしれません。

しかし、私が一つ示されることは、主はそのように全ての人と「神のことばのいうこと」が全く食い違う状況を終末の日にあえて私達に許されるようです。
そして、終末の日に「全ての人に迫害」されても、なおかつ「神のことば」を真実とする人々を求めておられるようです。

また、話を変えて、マタイ13章には、終末の日に「毒麦が火で焼かれる」ことについて書かれています。
今が聖書の暗号のいうように、終末なら、これらのことが起り始めても不思議ではありません。
そしてこのことは事実私達の目の前で起きており、
麦でたとえられる多くのクリスチャンが獣のリバイバルの中で、「悪霊の火」で燃やされています。

「そんなことは信じられない」「そんなことはあり得ない」というかもしれませんが、しかし、
聖書のことばが、「毒麦は終末に火で焼かれる」と書いてある以上、これは、必ず終末の日に起きてくることがらなのです。

このみことばの暗示する日、「全ての者」、すなわち牧師や、教師、信者や、全てのキリスト教書物のいうことと「神のみことば」のいうことが全く食い違う日は確かに私達の目の前に来ています。

しかし、私達はそれらの中で正しく主の語られたことばを選べるように求めましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー