No.199 北の国


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エレミヤ書 3:18 その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」

本日は、「北の国」という題でメッセージします。終末の日には、神の民に関して、「北の国」からの脅威があることを聖書は、度々述べています。これは何を意味するのかを見ていきたいと思うのです。

「北の国」に関する聖書箇所を順次引用して見ていきましょう。

”エレミヤ書 6:22 主はこう仰せられる。「見よ。一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。”

このエレミヤの時、エルサレム、ユダ、すなわち南の国に対して、北の地の民が、攻撃に来ることが語られています。同じように終末の日に、神のみ声に聞き従わないプロテスタントの教会に、今迄なかった脅威が訪れます。それは、北の地の「大きな国」すなわち、カトリックの教えです。この教えがプロテスタントの教会を襲うことは、今迄かつてなかった「災い」になることをはっきりと理解しなければ、なりません。「プロテスタントとカソリックが合同して何が悪い。これは、神のみこころにかなっている」などという人は聖書で語られている神のことばを知らない人々です。以下のように聖書は述べています。

”2歴25:6 さらに、彼はイスラエルから、銀百タラントで、十万人の勇士を雇った。
7 神の人が彼のもとに来て言った。「王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。
8 それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。」”

この時、南の国、ユダ国が北の国なるイスラエルの軍隊とともに戦うことが神のみこころではなかったように、今もプロテスタントとカソリックが合同していくことには、神のみこころがありません。

何故なら、「主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。」すなわち、カソリックの今の歩みには神がともなっておられないからです。逆に彼らと共同戦線をとれば、彼らの偽りや惑わしに影響を受けることになるからです。彼らの中のある者は、「仏教徒でもキリストの救いから漏れない」などという偽りを語ります。そして、このような偽りに同調する者達も多いのです。
このような教会と、プロテスタント教会は歩み寄りを始めつつあり、共同歩調をとろうとしています。
たとえば、新共同訳聖書等の働きはその一つです。これらの「北の国」と同調することにより、倒れていくプロテスタントの信仰者が多くでるでしょう。これこそまさに「北からの脅威」なのです。
 

エゼキエル書 38:6 ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。
エゼキエル書 38:15 あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。”

さて、終わりの日に”エルサレム”ということばで象徴される、「神のみこころの民」が、「北の国」に囲まれ、攻撃を受けることがエゼキエル書に記されています。有名なゴグ、マゴグのことです。
ですから、ゴグ、マゴグとは、今でいうカソリックの教会の隠れた「別名」なのです。
彼らは大軍勢であり、そして、多くの民をもって「神のみこころの民」を襲います。

”ダニエル書 11:40 終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。”

ダニエル書にも同じことが書かれています。北の王なるカソリックの軍勢は、南の王なるプロテスタントの領域を占領し押しながしていきます。これは、今起きつつあることなのです。終末に向かって、さらに
カソリックのあらゆる偽りはプロテスタント教会に浸透していくことでしょう。

”エレミヤ書 50:41 見よ。一つのが北から来る。大きな国と多くの王が地の果て果てから奮い立つ。”

ここでいう一つの民とは、一つの教会のことです。彼らは、振い立ってバビロン化した神の民を襲います。
カソリックのあらゆる偽りや、悪霊の教えはプロテスタントを席巻するようになるでしょう。
聖人の死体を拝すること、法皇にきくこと、聖書以外の外典を受け入れること、これらの教えは、今すでにプロテスタントへ紹介されつつあるのですが、終末に向かってますます顕著にプロテスタントの教会へ影響を与えるようになるでしょう。法皇が今、「カソリックの(プロテスタントに対する)優位性」をことさらに強調しはじめたのは、「その時」が今、来つつ有ることを語るものです。
 
 

”エレミヤ書 31:8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。”

しかし、一面、神はこの「北の国」遠く真理から離れてしまった教会から、人々を連れ出し、地の果てから彼らを集めるとも言われます。この中には「めしい」霊的に盲目な人々、「足なえ」信仰の歩みの弱い人々もいます。
彼らは戻ってきます。また、「妊婦、産婦」すなわち、乳を必要とする乳児を持つ人々、ヘブル書でいう「堅い食物」を食べられない人々もいます。彼らも戻ってくるのです。
 

”エレミヤ書 16:15 ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。”

「散らされたすべての地方」とは何を意味するのかを考えてみましょう。現在のキリスト教会には、
かつての単純、素朴、真実な信仰から外れて、あらゆる種類の「神からではない教え」が入ってきているのです。あるところでは、この世の心理学が入り込み、他のところでは、「可能性思考」なる人間の念力のような教えが入っています。また、「聖人」なる者への人間崇拝も入りこんでいるのです。そして、今の人々はそれらの教えに従うことにより、あるべきところから、遠くへ「散らされて」しまったのです。そして、そこは、神が「彼らの先祖に与えた彼らの土地」ではないのです。ですから、そこでは、彼らの受けつぐべき永遠の命に至らないのです。しかし、この終末の時代、神は「わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」といわれます。正しい真直ぐな信仰の道に戻って来る人々が現れてくるのです。
 

”ゼカリヤ書 2:6 さあ、さあ。北の国から逃げよ。「「主の御告げ。「「天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。「「主の御告げ。「「”

一方で、このように「北の国」の偽りに同調していくプロテスタントの人々がいるとともに、また、他方で、このような危険な惑わしから、かろうじて逃れて来る、プロテスタント、またカソリック
の人々がいるでしょう。ここでいわれている「北の国から逃げよ」ということはそれをさします。
ここで、神が「北の国から逃げよ」といわれている以上、現在、北の国なるカソリックで行われたり、信じられている多くのことがらは、神のみこころから遠く離れたことがらだということに気がつかなければ、
なりません。

たとえ、どれ程、伝統があることがらであるとしてもそれが、神のことばとぶつかるなら、「律法の一点、一画が滅びるより、天地が過ぎ去る、(教会が過ぎ去る)方が容易である」ことをしらなければなりません。
 

”エレミヤ書 23:8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」”

この北の国、すなわち、今のカソリックの信仰状態から、戻ってくることに神のみこころがあります。
その時、私達は「自分たちの土地」すなわち、神が当初から、用意して下さった、祝福の歩みに入ることができます。決して、北の国にとどまることはみこころではないことを知らなければなりません。

では、テキストについて見ていきましょう。

”エレミヤ書 3:18 りその日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」”

ここで「ユダの家はイスラエルの家といっしょにな」ることが述べられています。
このこと、旧約のユダ民族の子孫とイスラエル民族が1つになり、一緒になることは終末の日に成就するでしょう。今、それらしい動きが始まりつつあるようですが、このことは、終末に向かってさらにはっきりしたものになるでしょう。さて、これは第一義的な意味あいです。このことばには、もう一つ、たとえとしての意味あいがあると思われます。教会時代のたとえとして、見る時、ユダはプロテスタント、イスラエルはカソリックをさすと思われます。この2つのキリスト教会は全く分裂して、現在に至るまで、
ほとんどそれぞれ交流もないような状態です。しかし、聖書は、「その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり」と語ります。ですから、この2つの分裂した教会が1つになる日が来るのです。
このようなことは過去何世紀間、なかったことなのですが、しかし、終末の日に成就します。
このことは、良いことのように思えます。もちろん、良いことです。しかし、一面よいことではありません。何故なら、北の国なる北イスラエルが世界の中心なるエルサレムへ帰ってくるなら、祝福ですが、この時には逆にユダが北の国へ移っているわけです。

神が世界の中心にエルサレムを置いたということをよく考えなければなりません。
ここが神の定めたあるべき中心の場所なのです。ここより、東へ行っても、西へ行っても、南へ行っても、北へ行っても、神の指定した場所からずれていることになるのです。彼らは北にいます。ですから、あるべき場所から外れてしまったことが暗示されます。北はもともと北イスラエルのあったところですが、そこへユダ、今で言うプロテスタントが移るわけです。
すなわち、今でいうなら、プロテスタントの各派の信仰はカソリックの影響に取り込まれていってしまうのです。これは、道を外れることであり、とらえ移されることです。
 

しかし、「彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」と記されています。「北の国」とは、何をあらわすのでしょうか。聖書の中では、世界の中心はエルサレムであると述べています。ここが中心なのです。ですから、エルサレムから東に位置する日本は「東洋の国」であり、西に位置するイギリスは「西洋の国」なのです。さて、そのエルサレムのすぐ北に位置する国とは何でしょうか。それは、他でも無い「北イスラエルの国」です。さて、この民は遠い国、北の国から、「先祖に継がせた国」に帰って来ます。帰って来るという以上、彼らは今迄は、先祖の国から遠い地にいたことがわかります。このことは今の時代の我々に関しては、何を意味するのかを考えてみましょう。

我々クリスチャンは、長い間、「先祖の受け継いだ地」すなわち、かつての信仰の父や母が死守してきた、信仰の立場を受け継いできました。「この方による以外に救いはない」という立場もそうです。
この立場、信仰を守る為、遠い長崎の地で400年前に殉教した26聖人を始めとするこの日本の信仰者達は、殉教と迫害の中を固く信仰の立場を守ってきたのです。
しかし、今、北の国なるローマカソリックの地では、この「先祖から受け継いだ地」から、とらえ移されてしまった、「情けないクリスチャン」が多くいます。

もし、救いが仏教やヒンズー教の中にもあるなら、私達の信仰の先祖である、日本の命をかけた信仰の父や母の従いは無意味なものだったのでしょう。しかし、事実は、私達の先祖こそ、この地を死守した者達であり、今わけのわからない論理をふりかざし「仏教徒にも救いが及ぶ」などと、寛容といえば聞こえがいいが、その実、偽りを述べている人は「とらえ移されてしまった」人々なのです。情けない偽り者がこの「北の国」には多いのです。ある人々は最後まで、この偽りをあらためないかもしれません。しかし、全ての人がそうではありません。「わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」と書かれているからです。ですから、この終末の日、多くの神の民が主のかつて語られたあるべき地、信仰の立場に戻ってくるのです。

主のみこころの中心はエルサレムです。ここが中心なのです。マタイ伝で、主が「御使いを遣わして四方から選びの民を集める」と書かれているのは、このこと、南、北、東、西に神の民が散らされるとを前提に語られているのです。彼らはどこに集められるのでしょう。中心なるエルサレムであり、それはまた黙示録に記されている「新エルサレム」です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー