No.198  聖霊とソロモン(その2)


9  ソ ロ モ ン と 冨
 「私はあなたの前、また後の王達にもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよ
う。」II歴1:12
ソロモンの別の特徴は彼のその測り知れない富です。このソロモンの冨はそのまま私達の
上に注がれた聖霊の豊かさをあらわします。今、聖霊は私達の上に豊かにその富を注が
れますが、それは確かにこの世のどの王の与える冨にもまさるものです。「みたまのたま
ものにはいろいろの種類があります。」Iコリ12:4
 
 
 

10  ソ ロ モ ン と 平 和
 「ソロモンが..支配し周辺の全ての地方に平和があったからである。」I列4:24

 ”ソロモン”ということばの意味は”平和”です。この方、聖霊が支配されるとき私達
クリスチャンの間には平和があります。キリストが「聖霊は..平安を与えます」ヨハ14
:27といわれた通りです。
また「御霊の実は..平安」ガラ5:27と書かれている通りです。
ソロモンの治世の間、平和があったとの記事は注目すべきことばです。私達、人間は真
の平安、安息を求めるものですがこの真の平安は聖霊の支配の中にこそあることをこれら
の個所は明白に語っています。

11  ソ ロ モ ン と 王 国 の 確 立

 「王国はソロモンによって確立した」I列2:46

このダビデの王国がソロモンのとき確立したということばは意味深いことばです。私達の
主イエスは人の子としてこの世にあって福音を語り、十字架にかかり、贖いを成し遂げて
くださいました。しかしその王国ーキリストの王国の確立は聖霊によってなされることを
このことばは示しています。このことと関連して不思議なことは以下のことです。すなわ
ちダビデの時代、イスラエルの人数が数えられ剣を使うものの人数が合わせて200万人
にも満たなかったことが記されています。しかしそのすぐ後のソロモンの時代には、イス
ラエルの人々に関して「おびただしい民」I列5:7「数えることも調べることもできな
いほど、おびただしい民」I列3:8とくりかえしてその数の多いことが強調されていま
す。何故でしょう。
これらはこのことをあらわすのではないでしょうか。すなわち人の子として来られた
イエスはその肉体にあったとき有限な働きしかなすことができませんでした。有限という
ことばに反発を感じられる方もいるかも知れませんが、キリストご自身「私はイスラエル
の家の失われた羊の他には遣わされていない」とその肉体にある時の働きの有限性
(ここでは、地域的有限性)を認めておられます。しかし聖霊の働きは有限ではあり
ません。ペンテコステの日に異言ー多くの他国のことばで福音が語られたことが象徴
的に示すように聖霊の働きはイスラエルに止
まらず全世界に及び、福音を聞く人も決して人数的な制限をうけません。この事実をソ
ロモンの時代の民の人数に関する記述は示しているのではないでしょうか。すなわちダビ
デー肉体を持たれたキリストがかかわった人々の数は限られています。しかしソロモンー
聖霊が統治し導かれるクリスチャンの数は”数えることも調べることもできない”ほどな
のです。

12 ソ ロ モ ン と 異 邦 の 女 と の 結 婚

 「ソロモンはパロの娘をめとって.」I列3:1
 「ソロモンはパロの娘の他に多くの外国の女を..」I列11:1

ソロモンの結婚に関する記述の中で不思議なことはそれが全て異邦の女に関して書かれて
いるということです。ソロモンはエジプトのパロの娘、そして多くの外国の女を愛しました。
これは一体何を意味するのでしょうか。勿論この当時異邦の女をめとることは神に喜ばれる事で
はありません。事実これらの女たちがソロモンの心を他の神々に向けてしまいました。し
かしそのこととは別にソロモンの結婚に関する聖書の記述のなかでことさらにソロモンと
異邦の女との結婚のみ強調されているということに神の意図を感じます。イスラエルの女
の結婚に関しては全く記されていないのです。

さてパロの娘とは誰でしょう。パロはエジプトの王であり、エジプトはこの世を象徴して
います。ですからその娘とは他でもない、この世の子、異邦人を意味します。ソロモンは
このパロの娘をめとり、そのために家を建てたと書いてあります。(I列7:8)これは
他でもない、この世の子である私達をめとり、花嫁とし場所を用意される聖霊を表します
。ソロモンと対照的にダビテに関してはことさらに異邦人の妻との結婚に関する記述は
ありません。なぜならダビデは肉体にあるキリストを象徴し、キリストは「イスラエルの
家の失われた羊」の他には遣わされなかったからです。

しかしこれと対象的に聖霊が下ってからは多くの異邦人がこの福音に触れ、そしてソロモ
ン(聖霊ーキリストの霊)の妻となったのです。この事実を表しています。この異邦の女
との結婚と関連して気が付くのはソロモンが愛した女の数の多さです。「彼には700人
の王妃としての妻と300人のそばめがいた。」I列11:3 700人の王妃と300
人のそばめ、合わせれば1000人もの女性がソロモンにはいました。ダビデにはそばめ
が10人、それから妻がたしか3人ほどいたはずです。この二人の王の妻達の数を比較す
ると大きな差があることがわかります。これは何を意味するのでしょう。この事実は聖霊
が下ることにより多くの数の異邦人が救われキリストの花嫁とされることを示しているよ
うに思われます。繰り返すようですが、「肉体を持たれた」イエス キリストの働きは有限で
す。しかしその後下られた聖霊の働きは無限です。これらの記述は聖霊が助け救う人々の
数の多さを示します。まことにキリストがいわれた通り「私(肉体を持たれたキリスト)
が去っていくこと(その後聖霊が下られること)はあなたがたにとって益なのです。」ヨ
ハ16:7

13  ソ ロ モ ン と 多 く の い け に え

 「ソロモン王と彼のところに集まったイスラエルの全会衆は箱の前に行き、羊や牛の群
れをいけにえとして捧げたが、その数があまりに多くて数えることも調べることもできな
かった」II歴5:6
 「ソロモンが祈り終えると火が天から下ってきて全焼のいけにえと、数々のいけにえと
を焼き尽くした。そして主の栄光がこの宮に満ちた。」II歴7:1

これらの個所ではソロモンが多くのいけにえを神の前に捧げたことが記されています。い
けにえとはロマ書で「あなたがたの体を清い生きた捧げものとして捧げなさい。」ロマ
12:1 と記されているように私達自身を意味します。ここでも「あまりに多くて数え
ることも調べることもできない」とその数の多さに関して述べられています。これは聖霊
が多くの人に下りそれらの人々を神への供えものとして整えることを意味するのでしょう
。そしてこの多くのいけにえに天からの火が下り焼き尽くしたと記されています。このい
けにえである私達を焼き尽くす火はペンテコステの火(聖霊)を思い起こさせます。(使
2:1)この聖霊の火により私達の内側に聖霊なる神が宿られるようになったのです。ま
さしく「そして主の栄光がこの宮に満ちた。」と記されている通りです。
 
 

14  ソ ロ モ ン と 自 由

 「しかしソロモンはイスラエル人を自分の仕事をさせる奴隷にはしなかった。彼らは戦
士であり」II歴8:9

 聖霊のみ業のもう一つの特徴は”捕らわれ人を自由にする、解放のみわざ”をなされる
ことです。「主は御霊です。御霊のある所には自由があります。」と記されている通りで
す。そしてこのことに関してもソロモンに関する記述の中で示されています。
この聖句の不思議なことはわざわざソロモンがイスラエル人を奴隷にしなかった事を記し
ていることです。イスラエル人を奴隷にしなかった王は珍しくありません。サウルもダビ
デもそうです。その他のイスラエルの王もそうです。しかしソロモンに関してだけ”イス
ラエル人を奴隷にしなかった”ことが述べられています。これは神がこの記述を通して”
私達を自由にする方”を強調されているからです。

15  主 の 宮 が 立 て ら れ た 場 所

 「ソロモンは..エルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった」II歴
3:1

この宮が建てられた場所に関しても主からの教えがあります。その場所はどこでしょう。
それはエルサレムのモリヤ山上です。モリヤ山と聞いてすぐ思い出すのはアブラハムがイ
サクを捧げた物語です。さてここに意味深いものを感じます。すなわちこの宮はたびたび
繰り返すように神の聖霊を与えられた私達クリスチャンを指します。しかしその根拠また
は私達のような罪深い者達がきよい神の宮となる土台はどこにあるのでしょう。神は、そ
の根拠、土台はこの神の宮が建つ所であるモリヤの山の上にあると答えられます。アブラ
ハムにより捧げられた一人子イサク、そしてそれにより象徴される神の御子キリストの犠
牲こそこの宮の根拠、土台、よって立つ土地だと神は語られるのです。私達のようなこの
世の者が聖霊を受け神の宮となる根拠はただ一つ、その一人子を下さった犠牲の上にある
と聖書は語っているのです。
 

16  宮 が 投 げ 捨 て ら れ る こ と

 「しかしもしあなたがたが背いて..わたしがわたしの名のために聖別したこの宮を私
の前から投げ捨て」II歴7:19,20

最後に宮が投げ捨てられることに関する記述をみます。これらの宮に関する警告をみると
き私達の心に恐れが生じないでしょうか。これらの記述はそのまま今、神の宮である私達
に関する神の警告です。私達が尊くも神の御霊を受け神の宮とされたことはただ恵みに基
ずくものに過ぎません。もし私達が”神に背き”、”ほかの神々に仕えるなら”私達はこ
こに書かれている通り神の前から投げ捨てられ、国々の民の間で物笑いとなることを決し
て忘れてはなりません。これは私達クリスチャンへの警告なのです。

17 666とソロモン
 

さて、最後に終末に関係することがら述べましょう。

黙示録の中には、666という数字が述べられています。これこそ、反キリストの謎めいた数なのですが、
この数字は新約聖書の中では、黙示録にしか記されていません。さて、旧約聖書の中ではどうでしょう。
それが、他ならぬ、このソロモンに関する記述の中に1箇所だけ記されているのです。

1列10:14:「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」

この事実は何を語るのでしょうか。これはこういうことでしょう。このソロモンが確かに聖霊の型だとしたら、この終末の黙示録の時代にあらわれる「666の獣」も実は霊に関係していることを表しているのではないでしょうか。彼は、聖霊ならぬ霊、悪霊なのです。勿論、多少は「人」も関係してくるのでしょうが、反キリストという時、「霊」に大きな意味あいがあるのです。実際、キリストということば自体、「油ぬられた」との意味で、「霊」に関係したことばなのです。結果として、「反キリスト」とのことばも霊に関係する可能性が強いのです。

そのことの隠された暗示、それがこのソロモンの記述の中にさりげなく記された666という数字の意味ではないかと思われるのです。ですから、終末の時代、「霊」に気を配ること、配慮することに大きなポイントがあります。わけのわからない「霊」が暗躍する聖会に、「金歯が生えた」「金粉が出た」そして最近では「羽が落ちてきた」などという現象で飛びつく前に、霊を「吟味する」ことが非常に大事なのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー