No.196 倒れる


テキスト:

”ヨハネの黙示録 1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて(pipt)死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

ヨハネの黙示録 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した(pipt)。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

ヨハネの黙示録 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して(pipt)拝もうとした。
ヨハネの黙示録 22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」”

本日は”倒れる”という題でメッセージしたいと思います。
今、カリスマ的な集会で頻繁に起きている”倒れる”という現象に関して聖書が語っていることを見ていきたいと思うのです。

聖書の黙示録の中にこの「倒れる」(pipt)ということばが何回か使われています。
同じヨハネがこの黙示録の中で何度か倒れています。同じ倒れる(pipt)ということばが使われているのに、ある箇所では、ヨハネのこの行いがとがめられず、しかし、ある箇所では咎められていることを見ることができます。ここには何か対照的なものがあります。それを見ていきたいと思います。

上記テキストに沿ってみます。

”ヨハネの黙示録 1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて(pipt)死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり”

始めにヨハネが「最初であり、最後である方」を見た時、その足もとに倒れたことが記してあります。
この時、この方はヨハネを「恐れるな」と力ずけたことが書かれています。しかし、注目すべきことはこの方の足もとに倒れたことはとがめられてはいないのです。この方は「始めであり、終わりである方」すなわち、キリストなのですから、このことは当然、受け入れられることなのです。

”ヨハネの黙示録 19:10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した(pipt)。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。”

さて、ここでヨハネは先程「最初であり、最後である」方にしたのと同じこと、すなわちみ使いを拝もうとしたことが書かれています。そして今回は、そのことをとがめられ、とどめられています。しかも彼は、あろうことか、同じ黙示録でもう一度、同じことを繰り返し、そして
同じようにとがめられています。このことに何か神からの隠されたメッセージがないでしょうか。
神が語っていることがないでしょうか。よりによって、黙示録にこのことが2度書かれているということは、ここに終末を迎えようとしている私達に教える何かがあると思えるのです。

さて、「み使いを拝む」ということを考えてみましょう。み使いは確かに被造物ですが、基本的には見えないし、我々とそれ程身近な存在ではありません。

私自身信仰歴は長いつもりですが、今迄、見たことも声を聞いたこともありません。あまり直接関係がないようです。さて、それでは、
何か「み使い」を通して他に語っていることがあるのでしょうか。この「み使い」ということばを考えてみましょう。
み使いということばの訳語としては天使という意味が一番多い訳語です。しかし、それだけではありません。この同じことばに関して、英語でmessenger(メッセンジャー)との訳語があります。この言葉はたとえば、以下のようにつかわれています。

ヤコブ2:25同様に、遊女ラハブも、(使者たち)を招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。”

ですから、このことばは人、メッセンジャーをさすようにも使われているのです。
ですから、もしかするとこのことばは人間崇拝、働き人をキリストの位置へ置くことに関する警告を語っているのかもしれません。

このように考えると「「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。」ということばのいわんとしている意味がわかってきます。すなわち、
このことばは、神に仕える同じ兄弟を拝する危険について語っているのです。そして、わざわず、
黙示録に書いてあるということは、この「働き人崇拝」ということが、終末の日に大きな意味を持ってくるのかもしれません。

今は、確かに終末であり、黙示録で前もって警告されていたことがらが頻繁に起きています。
私がクリスチャンになった頃、(今から30年以上前)キリスト教の集会で人が倒れるなどということは、ほとんど聞いたことも見たこともありませんでした。しかし、最近の集会では、特にカリスマ的な集会ではこのことは頻繁に起きています。このことは「聖霊の働き」のようにも見えます。

しかし、上記のことばと比べて見る時、実はこの現象の裏に働いている霊は非常に危険なものであり、「神を拝さず代わりに被造物を拝する罪」すなわち偶像礼拝の罪へ導く霊である可能性が高いのです。また、この霊は別なことばでいえば、エデンの園以来のサタンの惑わし、すなわち「神のごとくなる」罪へと働き人を誘う霊かもしれません。人々が「神の噐」の足の下に群れを成して「倒れる」時、その裏にこの霊が働いているのかもしれません。
我々は、終末の日には、我々の周りにこの「偶像崇拝」の霊が働いていること、その危険があることを正しく悟るべきです。

さて、もう一つの箇所を見ましょう。

”ヨハネの黙示録 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して(pipt)拝もうとした。
9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」”

この箇所では、「それらのことを示してくれた御使いの足もとに」ヨハネがひれ伏して拝もうとしたことが書かれています。彼はみ使いがこの預言を示してくれたことに感激し、神秘性を感じて、思わず拝もうとしたのかもしれません。しかし、このことは神のみ心ではありません。また、とがめられるべきことがらなのです。さて、この時、この黙示録の預言を示してくれたみ使いのように、終末の日にも、預言を示したり、また終末の預言の解きあかしを明快に表す働き人達があらわれるかもしれません。いいえ、終末には、「封印が開かれる」と書かれているのですから、必ず、これらの人々はあらわれるでしょう。
しかし、そのような時であっても一つ我々が気をつけなければならないことは、決して彼らを
拝したり、神の位置におかないことです。偶像崇拝に関して神が語る警告は非常に厳しいことを
知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー