No.191 民族は民族と敵対する


スト:”マタイ24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”

本日は、「民族は民族と敵対する」として、メッセージします。
主が終末の日に、「戦争のことや、戦争のうわさを聞く」ことについて語られたこと、また、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上が」ることについて語ったことは誰でも知っていることです。
これらのことは、終末のしるしです。さて、これらのことばを率直に考えて見る時、はっきりいって、
これ程あいまいな預言はありません。何故なら、「戦争のことや、戦争のうわさを聞く」ことや、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上が」ることは、昔から、いくらでもあることであり、ありふれたことだからです。どの戦争が終末に結びつくのかいいあてることは全く不可能です。たとえば、以前「第一次世界大戦」を終末のしるしの戦争だという人もいたし、「第二次世界大戦」をそれだという人も
いました。最近では、「湾岸戦争」をそれだという人もいました。しかし、現在に至っても未だに終わりは来ていないので、結果として、これらの戦争はその終わりではなかったことがわかります。このようにいった人は間違えたわけです。しかし、そもそもこのようなあいまいな預言なら、間違えてもしかたがないような気さえしてしまうのです。
何故、主イエスともあろう方が終末に関してこのようなあいまいな預言をされたのでしょうか。今日は、このことを見ていきたいと思うのです。

度々いうようですが、主が聖書の解釈に述べられた時、「たとえ」について語られたことを、
決して忘れてはいけません。主は今の偽りの聖書学者達がいうように、「文字どおり読む」ことなどを、決して強調されはしなかったのです。今の教師達は「霊的解釈はよくない」などと、わけのわからないこと、かつ聖書にも書いていないことを強調して、実質的に「たとえ」について述べた主のことばを否定し、そのように解釈する人々を排斥しています。

その当然の報いとして、終末のことばは彼らの前に全く開かれていません。彼らが終末のことばを語る時、ただ空しく、自分でも確信が持てないことをだらだらと言いつのっているのにすぎません。自分でも分かっていないことをどうして人に教える事ができるでしょうか。
エレミヤがかつて語ったように、「主のことばを退けた以上彼らに何の知恵がある」でしょう。

そのようなわけでこのことに関するたとえを理解していきましょう。
上記テキストを理解しようとする時、気をつけなければならないのは、聖書でいう「民族」「国」とは、
どのようなものかをはっきりと理解することです。何故なら、
同じことばでもこの世でいう定義と聖書でいう定義は微妙に違う事があるからです。例えば、
我々が学校にいる時、「先生」といえば、いわゆる数学や国語の教師のことです。
しかし、教会で「先生」といえば、また違う人、牧師をさすことがあります。ですから、状況により、同じことばでも定義が異なるのです。(勿論、聖書に、地上の誰をも先生と呼ぶなと書いてあるので、私は
教会では、先生と呼ぶべきではないと思っているのですが。)

世の中でいう、「国」はアメリカやイギリスやらの国であり、終末には、それらの「国や民族」が争うと我々は、理解してしまうわけです。
しかし、そのような人々は、新聞やこの世の地理には精通していても聖書には
精通していない人々です。聖書は、何はともあれ、数多く何度も読まなければなりません。読む人、
求める人は聖書の真理に触れます。
聖書は、国や民族に関してどのように語っているでしょうか。以下を見て下さい。

”創世記 17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。”

ここで、アブラハムが多くの国民の父と呼ばれていることを見ます。また、サラについてもこう言われています。

”創世記 17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」”

彼女も多くの国民の母となることが語られています。また、多くの王が彼女から出る事が語られています。

ですから、逆にいうと、聖書でいう「国民」「民族」「王」とは、皆アブラハム、サラの子孫、すなわち、
今でいえば、クリスチャンをさすことがわかるのです。

アブラハムの子孫には、色々な国や民族、国民がいます。勿論、イスラエル民族は、アブラハムの子孫ですが、
それ以外にもヤコブの兄エサウの子孫であるエドム、またイシマエルの子孫もいます。
これらの民族は、同じ血筋であるとはいうものの、互いにいつも仲が良いというわけではなく、逆に争いをおこしたりしています。これが歴史的事実なのです。

さて、アブラハムの新約における子孫であるクリスチャンはどうでしょう。少なくとも今は、カソリック、プロテスタント等の立場の違いはあるものの、大きな争いや、全世界的ないさかいがあるわけではありません。しかし、終末の時代には、この状況に変化が起きます。以下のような状況が起きてくるでしょう。

”マタイの福音書 10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”

すなわち、キリストにある兄弟姉妹の関係に変化が生じ、争いが起き、結果として、兄弟は兄弟を死に渡す日が来るのです。彼らの間に戦争(争い)やいさかいが起きてくるのです。

さて、上記のことがらを念頭にテキストの箇所を見ていきましょう。

”マタイ24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。”

「戦争のこと、戦争のうわさ」とは、大平洋戦争等の戦争のことではありません。
他でもない、主にある教会、教団間の争い、闘いのことをさすのです。このことは聖書に前もって書かれているのですから、必ず起きます。しかし、だからといって、すぐ終わりがくるのではないので、
あわててはいけないのです。

7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり”

民族、国とは、アブラハムの子孫の民族、国をさします。今でいえば、キリスト教の各教団、教派をさすのです。
それぞれの教団が考えを異にして、争うのです。何故そうなるのでしょう。
その理由としては、終末の日に下る霊が異なるからです。ある人々は真に神の聖霊を受け、他の人々は、悪霊を受けます。その2つの霊の間に一致があるわけはなく、神の民の間に不一致と争いをひき起こします。また、もう一つの理由は、教会の曲がった教理を正し、回復する動きが起きてくるからです。
彼らは異端、カルトと呼ばれ「正統的な教会」から、排斥されるでしょう。主イエスがそうであったように、これらの人々が「今までの正統的な教え」の誤りをまっすぐにするべく、回復するので、逆に迫害されるのです。

”方々にききんと地震が起こります。”

ききんは、水がないことですが、これは「生ける水ー聖霊」のききんです。ラオデキヤの教会への手紙に書かれているように、終末の日に、主イエスの霊、聖霊は教会の外に追い出され、結果として、教会に霊のききんがきます。
また、地震が起きます。
地震とは何でしょうか。聖書でいう地震に関する「たとえの連鎖」を考えてみましょう。
すぐわかることは、地震に関連していることがらとは「家が倒れること」です。ですから、地震は
家と関係しているのです。家は教会のたとえであり、すなわち、教会への試しの日が地震の日なのです。阪神大震災を見てもわかるように地震にあったからといって、全ての家が倒壊するわけではないのです。
倒れる家も倒れない家もあります。同じように終末の試しの中で倒れない教会もあるでしょう。
しかし、いくつかはそうではあっても多くの教会が倒れていきます。それが地震の時なのです。そして、
阪神大震災の時、そうであったように、倒壊した家、教会の人々は命をなくすのです。

”8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。”

これは、産みの苦しみの初めです。生まれるのは何か。それは、黙示録に記されている
終末の男の子であり、これは殉教者です。

”9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。”

兄弟間の「戦争や、民族の争い」の結果、主につく人々は迫害され、殉教します。このことは、主イエスの時にも起きました。イエスの同胞であるユダヤ人は、主イエスや弟子達に対して論争や、訴えをおこし、最後にはローマに属するピラトのもとで、同胞イエスを十字架で苦しい目に会わせ、殺したのです。また、同じく、同胞であるパウロにも何度も言い争いをしかけ、法廷で彼を訴え、命を取ろうとしたのです。
そして、主につく人々は「すべての国の人々に憎まれます」。すなわち、全ての教団、教派から憎まれます。かつての戦争時、日本の教会は「神社は、宗教ではない」と強弁し、それに同調しない、小数の主につく教会、信徒を排斥、切り捨てました。同じようなことが起きるのでしょう。

また、”また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。”との表現が先程引用したルカ伝の記事にも記されていたことを思い出して下さい。ここには、類似した形が見られます。

すなわち、先程のマタイ伝10章では、

a)「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し」との記述の後に、
b)「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。」との記述がある。

このマタイ24章では
a')「戦争のこと、民族、国が敵対する」との記述の後に、
b')「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」との同じ記述。

上記b)とb')の記述はどちらも同じことばが使われています。何故でしょう。恐らく、こういうことだと思われます。すなわち、上記、a)とa')
も違う表現が使われているが、実際は同じ事をさすのでしょう。それを示すためにこのような記述になったのではと思われるのです。すなわち、「民族と民族が争うこと」それが実は「兄弟が兄弟を死にわたす」ことの別の表現なのです。これらは同じことをさしているのです。

”10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。”

この時は大ぜいの人々がつまづきます。すなわち、この時がテサロニケ書でいう「背教」の時なのです。
そして、この時、クリスチャン同士が、「互いに裏切り、憎み合います」。

”11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。”

この時にあわせたように教会や集会ににせ預言者が多くたてられていきます。今、まさにその時です。
私たちの目が開かれるなら、多くの働き人、特に外国から来るひとびとの中に意図的な偽預言者、教師がいることを知ることができるでしょう。もちろん、意図的に騙す教師もいるし、自分はまちがっていないと確信しながら、しかし間違えてしまう教師もいるでしょう。そして、その結果、「多くの人々」が惑わされるのです。

12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。”

教会の中では、クリスチャンの歩みが神の教えを守らないものになります。結果として、
多くの人たちの「神への」愛は冷たくなります。

”13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。”

このような時代ですが、しかし「最後まで耐え忍ぶ者は救わ」れるのです。ですから、決して、「艱難の前に挙げられる」などと嘘をいう、段階携挙説にだまされて備えを怠ってはいけません。今は備えの時であり、祈りの時、訓練の時なのです。

終末における主のみこころを行なっていきましょう。

ー以上ー