No.190 「4匹の馬」

テキスト: 黙示録6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

本日は「4匹の馬」という題で黙示録の四匹の馬について見ていきたいと思います。
最初に「馬」ということを見ていきたいと思います。馬のたとえを理解するヒントはヤコブ書にあります。
ここでは、教師に関するたとえが書かれています。教師は、馬のくつわにたとえられています。そして、
馬の体全体は教会全体として書かれています。ですから、馬は教会のたとえの一つである事を見るのです。
さて、教会には、家、都等数々のたとえがあります。そしてそれぞれのたとえは、教会のそれぞれ別の面をさすたとえとなっています。たとえば、家は教会の家としての面をさすたとえです。
家には、父母、兄弟、姉妹がいますが、教会にもそれらの人々がいます。家は教会のその面をさすたとえです。また、女は教会の別の面をさすたとえです。女は夫と結婚関係を持ちます。ですから、「女」は、教会の夫たるキリストとの関係をあらわすたとえなのです。
さて、「馬」とは、教会のどのような面を表すたとえでしょうか。

”ゼカリヤ6:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。
2 第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、
3 第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。
4 私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。
6 そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く。
7 この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。」そこで彼が、「行って、地を駆け巡れ。」と言うと、それらは地を駆け巡った。
8 そのとき、彼は私にこう告げた。「見よ。北の地へ出て行ったものを。それらは北の地で、わたしの怒りを静める。」”

上記箇所がその参考になります。少し見ていきましょう。

”1 私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。

山は青銅の山であることが書いてあります。青銅は聖書の中では、「裁き」を表すようです。
ですから、この四匹の馬は裁きと関係があるのでしょう。
また、これらの馬は、それぞれ戦車と関係しています。ですから、これらの馬、教会は闘いと関係しているのです。これは恐らく、終末の主の日の闘いと思われます。

”2 第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、”

赤は、黙示録では「火のように赤い馬」と記されています。ですから、赤は火、すなわち霊を表すのです。黒は白の反対の色です。白は「罪は....雪のように白くなる」と書かれているように、義を表します。その反対の黒は罪をあらわします。

3 第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。”

白は義をあらわします。まだら毛とは何でしょう。白地に黒のまだらということでしょうか。それとも、
その逆、黒地に白の点かもしれません。どちらにしても、白と黒が混在しています。
ですから、この教会は義と罪とが混在している教会です。

”4 私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。”

この馬、教会の役割は何でしょうか。それは、「天の四方にでて行くものだ」ということです。
ですから、これは、全世界の信者に影響を与えるものでしょう。たとえば、前の戦争では、日本軍が四方にでて行きました。その結果、東では、アメリカでは真珠湾が攻撃され、南では、シンガポール等が攻略され、また西では、中国の支配が進められていったのです。世界に影響を与えたのです。同じように、この馬は
終末の日の全世界的な規模での教会の変化を表します。
そして、これらは「全地の主の前に立って後」出て行きます。これは、何をいわんとしているのでしょうか。これはこのことをさすのでしょう。すなわち、これらの教会の変化は神から出ているものだということを示しているのです。

”6 そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く”

北、南の地について書かれています。聖書でいう世界の中心はエルサレムです。その北は北イスラエルの国です。
その国に黒い馬が出て行くとは、北イスラエル、今でいうカソリックに黒、罪が蔓延するということかもしれません。
しかし、その後、「白い馬」が出て行くと書いてあります。終末の回復、リバイバルが起きるのでしょう。
まだら毛の馬は南、すなわち、白と黒が混ざった状態が南の国に起こります。北が北イスラエルなら、
南は、ユダ国、予表としてはプロテスタントです。

”7 この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。」そこで彼が、「行って、地を駆け巡れ。」と言うと、それらは地を駆け巡った。”

地を駆け巡る馬は早いものですが、そのようにすみやかにこれらの白、黒、まだらの馬であらわされる状態は、教会に実現されるでしょう。

”8 そのとき、彼は私にこう告げた。「見よ。北の地へ出て行ったものを。それらは北の地で、わたしの怒りを静める。」”

北の地へ出て行った馬は黒い馬です。罪は、この地で蔓延します。そして、その後、白い馬、義の教会が出て行きます。ですから、この地では、白と黒、義と不義との闘いが起こる事が予想できます。罪の結果は裁きですが、それにより神の「怒りは静め」られます。
さて、以上のことを基本に黙示録のテキストを見ていきましょう。
 

”1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。”

雷は雨と関係があります。雨は草木を潤し、養う恵みです。しかし、同じ雨に関連しても、
雷は人々に落雷を与え、害を及ぼします。
ですから、雷は聖霊なる神に従わない事への裁きを暗示します。

”2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。”

ここに白い馬があります。白の意味は聖書を私的解釈せず、他の箇所を参照する時、正しい解釈が与えられます。白は以下のように義をあらわす色です。

”マルコの福音書  9:3    その御衣は、非常にく光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
ルカの福音書    9:29   祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣はく光り輝いた。
ヨハネの福音書  20:12  すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、い衣をまとってすわっているのが見えた。
使徒の働き      1:10   イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。

ヨハネの黙示録  1:14   その頭と髪の毛は、い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
ヨハネの黙示録  2:17   耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼にい石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
ヨハネの黙示録  3:4    しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らはい衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
ヨハネの黙示録  3:5    勝利を得る者は、このようにい衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
ヨハネの黙示録  3:18   わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着るい衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
ヨハネの黙示録  4:4    また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

ヨハネの黙示録  6:11   すると、彼らのひとりひとりにい衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

ヨハネの黙示録  19:14  天にある軍勢はまっな、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
ヨハネの黙示録  20:11  また私は、大きない御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。”

この白い馬の上に勝利者がおり、彼は「勝利の上にさらに勝利」を得ようとしています。
彼こそ黙示録の7つの教会の中で預言されている、終末の日の勝利者です。この時、多くの教会に勝利と
回復が与えられます。

3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。”

この馬は「火のように赤い馬」です。火は霊のたとえです。ですから、これはいわゆる「リバイバル現象」が行き渡る事を語っているのです。ただし、本当の聖霊によるもの(だけ)とは限りません。
この「火」により、「地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。」と書かれています。すなわち、この「火」は争いを教会内に持ち込むのです。
「そんなばかな、リバイバルが教会内に争いをもたらすわけないだろう」と思うかもしれませんが、
これは聖書に隠された事実であり、主も以下のように預言しています。

ルカの福音書 12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」”

ここにも黙示録と同じように、火と平和を奪い取ることについて書かれています。ですから、「火」は争いをもたらすのです。勿論、下ったのが、聖霊だけなら、ただ一致だけがあるはずですが、片方が
聖霊ならぬ霊なので、信者間に争いが起きるのです。

「また、彼に大きな剣が与えられた。」

剣は「御霊の剣、すなわち神のことば」と書かれているようにみことばのたとえです。
しかし、終末の日に敵はこのみことばを曲げて神の民に災いを下します。大きな剣と書かれているように、広範囲に、この偽りは行なわれます。

すなわち、ローマ法皇が聖書をもとに「終末はない」などという時、その偽りに神の民は惑わされ、結果として裁かれるのです。

”5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」”

黒は罪を表し、罪が世界の教会をおおう時がくることを表します。「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」と書かれています。「オリーブ油とぶどう酒」は聖霊のたとえであり、霊に害が与えられ、他の霊が教会内で働く時代が来ます。

”7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。”

最後の馬は青ざめた馬です。死が乗っており、ハデスが付き従います。ですから、この時、全世界の教会に死とハデスが行き渡ります。この死は霊の死です。聖霊を追い出すために、霊の命が消えていくのです。
この事が起きる理由は「剣とききんと死病と地上の獣」です。
剣は曲げられたみことば、教理。ききんは聖霊の水の枯渇、死病は聖霊がないため、あらゆる霊の病がやってくることです。愛が消え、悪霊のような思いに悩まされていきます。また、地上の獣はこの世の政治組織です。この政治が真に主に従う事を禁止するように命令するようになるのでしょう。

これらのことのいくつかは、もうすでに我々の前に起きています。それが見えないのは、私たちが盲目だからであり、主に見せてもらわなければなりません。

主を恐れなければなりません。裁きはすでに神の家から始まっています。

終末における主のみこころを行なっていきましょう。

ー以上ー