No.189 イゼベル


テキスト”
ヨハネの黙示録 2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。”
 

本日は「イゼベル」という題でメッセージをします。イゼベルとは、列王記に出てくる北イスラエルの王、アハブの妻です。これはもう今から3000年程も前の記述なのですが、今の我々と関係があるのでしょうか。私は関係があると思います。何故なら、未来を、教会時代を預言した黙示録の7つの教会への
預言の中に他でも無いこの「イゼベル」に関する記述が出てくるからです。
教会に関する預言の中に彼女の名前が出てくるということは、一つのことを暗示します。すなわち、列王記に出てくる「イゼベル」に関する記述は、ただの歴史物語りにとどまらず、さらに未来の教会に関する預言、型なのです。

ですから、イゼベルに関する記述を調べる人は未来の教会、特にこのことばが記されているテアテラの教会に関する聖書の預言を理解することができるのです。上記テキストの「イゼベルという女」とは、このことを示すヒントであり、このことばに注意を払い、イゼベルに関する記述を見ていく人々は、聖書が語る謎を理解します。

この理解に基づき、彼女に関する記述を見ていきましょう。

”列王記第一 16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。”

彼女は北イスラエルの王アハブの妻です。北イスラエルの国が終末の私達に対して意味することは何でしょう。私は恐らく、現在のローマカソリック教会のたとえではないかと思っています。ですから、このイゼベルについての記述があるテアテラの教会は多くの人々が解釈するようにローマカソリックをさすのではないかと思えるのです。さて、このテアテラの教会にイゼベルという女があらわれると黙示録は預言しています。
イゼベルはエテバアルの娘です。エテバアルとは「バアルと共に」との意味です。
ですから、この女は人々にバアル崇拝を持ちこみます。
バアルとは「主」という意味です。すなわち、この教会は教会内にキリスト以外の「主」を持ち込むのです。
旧約のイゼベルは神の民の間に主なる神をさしおいて、バアル神の偶像を持ち込みました。
同じようにこの教会も新約の神の民の間に真の神を捨て、主となる偶像、すなわち法皇への聞きしたがい、
盲信を持ち込んだのです。
 

イゼベルという名前は「結婚しない」という意味です。すなわち彼女には夫がいないわけです。
このことばには語りかけがあります。これは、黙示録の「私はやもめではない」という淫婦バビロンに通じます。また、「私には夫はいません」といったサマリヤの女に通じます。サマリヤは北イスラエルの主都であり、彼女もカソリックのもう一つの面を表す預言(終末のリバイバルをさす)です。

キリストの妻たるべき教会が結婚しない、夫なるキリストがいないというとは驚くべきことばですが、
しかし、このことばはこの教会のたてまえではなく、霊的実際をあらわしたものです。

”列王記第一 18:4 イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。「「”

このイゼベルは主の民を誤りに導く憎むべき教会です。その上に主につく預言者、今の時代の教師を殺します。これは、霊的な死か殉教かはわかりませんが、何しろ殺すのです。その時、オバデヤ(主のしもべという意味の名前)はパンと水で彼等を養いました。パンはみことばのたとえ、水は聖霊のたとえです。
ですから、このように偽りの教えがいきわたったカソリック内部にも真に神からのことばと、聖霊の働きで養う主のしもべが起きることが預言されています。
 

”列王記第一 18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」”

さて、アハブ王、イゼベル時代の北イスラエルにおいて何といっても大きなできごとは、エリヤが現れ、主の名により天から火を呼び下したことです。この時、「四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者」すなわち合計850人もの偽預言者がいたことが記されています。それに対して、
主の預言者はエリヤ一人です。そして火はエリヤの求めに応じて下ったことが記されています。
エリヤは黙示録11章の2人の預言者に通じます。終末の日にも預言者を通して、イゼベルにだまされた教会、カソリックにリバイバルの火が下ります。これはまたヨハネ伝のサマリヤの女の物語に記されたリバイバルの預言の成就でもあります。サマリヤの井戸の水はリバイバルの日にくみ出される命の水、聖霊の型です。
今、カソリックで起きつつあるカリスマ運動はこの始めかもしれません。
しかし、一つ気をつけなければ、ならないことがあります。それは、今の日本のペンテコステ、カリスマの集会がそうであるように、その働きの中に偽のリバイバル、獣のリバイバルが紛れ込むことです。
今の「メーソンという噂の絶えない」法皇がカリスマ運動に理解があるようなことをほのめかしているそうですが、まさに敵はその重要性を心得、すきをうかがってているのです。
 

”列王記第一 19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」”

ここで、イゼベルは火を下したエリヤの命をとると脅しているわけです。ですから、終末の日に、
リバイバルをもたらすカソリックにおける主のしもべには殉教の覚悟がいります。
 

”列王記第一 21:5 彼の妻イゼベルは彼のもとにはいって来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」
列王記第一 21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」”

ナボテとは「実」という意味であり、聖霊の実のある人々のたとえでしょう。彼等は自分のぶどう畑を売ることを拒みます。先祖のゆずりの地、ぶどう畑とは何を意味するものでしょう。
イスラエルはアッシリヤへ、ユダはバビロンへととらえ移され、神の民が先祖達のゆずりの地を移されていくのに、彼は先祖達の道を守りつづけ、ゆづりの地にとどまりつづけようとしたのです。
彼は、信仰の先祖達の守り抜いた信仰の立場を受け継ぎ、その道から外れない信仰者の型です。
法皇崇拝をせず、キリストに堅くとどまる人々のことをさすのでしょう。そして、彼等はイゼベルにより虚偽の訴えを受け、殉教するのです。
 

”列王記第一 21:23 また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』

このイゼベル
なる教会の最後は主の裁きに入ります。犬は新約聖書の「テーブルの下でパンくずを拾う犬」のたとえにあるように、異邦人、今でいう未信者のたとえです。この教会は未信者の手により滅びます。

”列王記第二 9:7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。”

主のしもべが流された血に関する裁きの日が終末に訪れます。

”列王記第二 9:37 イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。』」”

その裁きの日には、教会は解体され、とてもこれが教会だとはいえなくなるでしょう。

さて、以上を基本に上記テキストの黙示録を見ていきたいと思います。

”20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。”

このテアテラの教会(恐らくカトリックをさすと思われる)の非難されるべき点はイゼベルをなすがままにさせていることです。ですから、イゼベルの教えは全て一掃されるべきではないでしょうか。
イゼベルの教えとは「結婚しない」とのことばどおり、信者を真の夫たるキリストから離し、頼らなくさせる全ての教えです。この教会の神父や教師は人々を教えることになっています。しかし、その実際は、「しもべたちを教えて誤りに導」いています。「偶像の神にささげた物」とは、別に神棚や仏様の前の供え物を食べさせているわけではありません。偶像は、神の代わりに法皇や聖人や神父をその位置に置くことです。「ことばは神」なのですから、「神がその種類に従って創造された」とのことばを投げ捨て、「進化論は科学的だ」などという法皇のことばを選ぶなら、それはりっぱに「偶像崇拝」です。
教会の説教の中で、このような法皇のことばを聖書に優先させるなら、それは実は「みことばのパン」ならぬ、「法皇のことばなるパン」すなわち、「偶像の神にささげた物」を食べさせていることになるのです。

”21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。”

神はこの教会に悔い改める機会を与えたといわれます。以前の善良な「ヨハネパウロ1世」が教会内の
フリーメーソン(悪魔礼拝者)一掃の人事を発表した後、就任後33日目(33はフリーメーソンにとって特別な日)に殺された時はその一つの機会だったのでしょう。また、その後、メーソンに関係した高僧達が不審な死にかた(口封じ?)をした時もそうだったのかもしれません。また、彼らの崇拝するマリヤの予言が
どれもこれも外れていった時、それも神が与えた、目をさますための機会だったのでしょう。マリヤは、黙示録に記された「しるしを行う悪霊」です。しかし、多くの信者の目はさめず、彼らはその悪霊との
不品行を悔い改めませんでした。

”22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。”

この女(教会)は病の床に投げ込まれます。多くの人がイエスのもとに来た時、いやされました。
盲人、足なえ、中風、誰も彼も皆いやされました。このことは今も真実であり、私達が主のもとへ来て、
真実に主を求めるなら、私達の霊のそして、体の病も主のみこころの中でいやされていくのです。
しかし、ここに姦淫の教会がおり、彼女の病はいやされず、かえって病の床に投げ込まれます。
この教会の信者の霊の病も体の病もいやされず、かえって病は増していくでしょう。彼らのうちのある者は、
あろうことか、聖書を捨てて仏教やヒンズー教にまで、解決を求めていきますが、真の神を捨てて、
偶像を拝する彼らにどうして病のいやしがあるでしょう。

また、「この女の行ないを離れて悔い改めなければ...大きな患難の中に投げ込もう」と書かれています。
この教会に属する人々は、この教会の歩み、伝統、方針に従って歩めとは、ここで勧められていません。
逆に「悔い改める」こと、方向転換することについて書かれているのです。
ですから、この教会に属する人々は、この教会の歩みに
盲目的についていくのなら、終末の日に大きな艱難の中に投げ込まれることを知るべきです。

”23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。”

「死病によって殺す」と書かれています。病ということを考えてみましょう。もし、人の耳が病になれば、健康な人と異なり、耳が聞こえなくなります。また、目が病になれば、目が見えなくまります。
目が見えず、耳が聞こえないなら、赤ずきんちやんの童話ではありませんが、おばあさんに化けた狼の耳も見えず、狼の声色も聞こえず、結果として、狼に滅ぼされてしまうのではないでしょうか。
狼、敵はこの教会の中で好き放題に、食い荒らしており、「終末はない」「進化論は科学的だ」「法皇のことばは聖書以上に価値がある」「フアテイマのマリヤは正しい(実際はこれも悪霊)」などと、偽りをいいたい放題なのですが、病の中におり、目も耳も聞こえなくなった信者には何の問題も感じられないようです。彼らが病の中に、死病の中に入って癒されないのは、「いやし主なる主」を捨て去り、偶像を拝しているからだということを知るべきです。

また、「わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」と書いてあります。
神は人の外側や、敬虔そうなふるまいではなく、真にその人の「思いと心を探る者」であることが述べられているのです。ですから、今私達は「思いと心を」きよめられるように求めるべきです。
私達の思いと心を真にきよめ、いやされる方はこの方以外誰もいません。法皇でもマリヤの霊でもなく、
また聖人でもなく、真に主なるキリストのみにいやしがあることを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー