NO.188 二つのトピック


テキスト:”1コリ11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

本日は”2つのトピック”という題でメッセージします。聖書を注意深く読む人は、聖書の中で、
2つのトピックについて繰り返し語られていることに気がつくと思います。
それは、他でも無い聖餐式でとりあげられるパンとぶどう酒のことです。
聖餐式の中で主はこの2つのことについてのみ語られました。他には語られなかったのです。ですから、教会への祝福はこの2つを通して来ることが予想できます。そして教会の問題、そして裁きもこの2つに関連して起こるのです。その上、教会の回復もこの2つに関して起こるのです。今日はそのことを見ていきたいと思います。

上記テキストではパン、すなわちみことばについてはこう書かれています。

「主イエスは、渡される夜、パンを取り」

渡されるとは敵に渡され、自分の命が絶たれることをさします。すなわち、みことばには主の命がかかっていることが示されているのです。

ぶどう酒、すなわち聖霊に関してはこう書かれています。

「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。」

同じとは、ぶどう酒もパンと同じように主の命がかかっていることを語っているのです。
このことは重くまた、真剣に扱うべきことがらだということがわかります。
 

”27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。”

この2つは神からの祝福です。しかし、もう一つの面があって、私達がもしそれにふさわしくないものであるなら、罪をおかすことになり、さばきを招くのです。

29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。”

そして、この飲み食いは実際にさばきをもたらすことが語られています。

”30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。”

その裁きとは具体的にどのようなものかをここで語っています。それは、霊的に弱いもの、そして
病人が多くなることです。もし私達が霊的に目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、また
歩けなかったりするなら、それは、私達がこの裁きにはいっているからかもしれません。そして「死んだ者が大ぜいいます」と書かれています。これは具体的に墓に入る死を直接的には表すのでしょう。
しかし、たとえとしては、霊の死を表すと思います。
エジプトがモーセの時代に裁かれた時、まず川が血に変わる裁きから始まりました。これは、明らかに
「主のからだと血に対して」の罪への裁きを表すと思われます。エジプト化した教会が聖霊を汚すので、その結果、ナイル川が血に変わり、聖霊の働きが悪霊のものへと変わるのです。
そしてエジプトの最後の裁き、10番目の裁きは初子の死、
すなわち、「死」でした。この「死んだ者が大ぜいいます」とのことばに対応しています。

さて、このようにこの2つのトピック、パンとぶどう酒に関しては、それによる祝福と、ふさわしくないままでこれを受けるものへの裁きが語られています。

しかしながら、このような警告にもかかわらず、実際の教会の歴史においては、この主の命がかかっているパン(みことば)とぶどう酒(聖霊)への攻撃と冒涜が行われてきました。
パン種のたとえで語られている通り、女によりパン種(罪)が3サトンの粉(神のことば)に増え広がったのです。

しかし、終末の日に主はこの2つのトピック、パンとぶどう酒の回復についても語っています。

終末の日の教会の回復の予表的な記述がエズラ、ネヘミヤ書です。エズラは宮の回復、ネヘミヤは都の
回復を行いました。そして、その記述の中で象徴的なのがこの2人の職業です。エズラは律法学者、ネヘミヤは献酌官です。律法学者はみことばを回復するもの、偽りの教理からみことばを回復する者のたとえです。また、献酌官はぶどう酒と関係があり、聖霊、純粋なナルドの香油を注いだ女のように、聖霊の働きを回復する者、聖霊の酒を注ぐ者のたとえです。

ですから、終末の日の教会の回復に関してもこの2つのトピックを中心に語られているのがわかります。

さて、終末の日にこの2つのトピック、パンとぶどう酒への冒涜のゆえに神の民に裁きが下ります。
黙示録はそのことを色々表現を変えながら、何度か述べています。以下の表現もその一つです。

”ヨハネの黙示録 6:5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
 6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」”

馬はヤコブ書によれば、教会のたとえです。黒は白と反対の色であり、罪を表す色です。
白は「白い衣を着ることを許された人々」と書かれているように義を表します。そして、黒は白と反対に罪を表すのです。ですから、黒い馬が来るとは、馬すなわち教会に罪が満ちていることを表すのです。

ここでは、小麦、すなわちパンのもと、みことばに害を与えること。及びオリーブ油、ぶどう酒すなわち聖霊の働きに害を与えることについて書いてあります。
終末の日にこれらが行われることが暗示されています。

聖書の中には、神が特別に与えられた2つのもの、パンとぶどう酒、すなわちみことばと聖霊について度々言及されており、終末のさばきの日には、これらを冒涜することが理由で神の民がさばかれるということをとらえましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー