No.187   1/3への裁き


”テキスト:黙示録8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。”

本日は1/3への裁きという題でメッセージします。

聖書の一つの特徴は、同じことば、同じ数字には意味、関連があるということです。
聖書は謎に満ちた書ですが、それを解く一つの鍵は「同じことば」「同じ数字」に注目することです。ペテロの手紙の中で、預言解釈に関連して、「私的解釈をしない」すなわち、「そのテキストのみから解釈をしない」ことが語られています。要するに「他のテキストも参照しろ」ということです。ですから、何かわからないことばが出てきたとき、その箇所のみから解釈せず、他の箇所をも参照する人は正しい解釈に近付きます。「同じことば」に関して他の箇所をも参照するのです。たとえば、「にがよもぎ」ということばが黙示録に出てきます。

"
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。"

多くの人はこの箇所を「私的解釈」して、やれチェルノブイリは苦よもぎだ、これは核による汚染だとか、いかにもこの世的な解釈をします。彼等は「川」が聖書的に何を意味するのか、「水」は聖書的に何を意味するのかという聖書の基本的なことを理解していません。また、彼等は「苦よもぎ」ということばに関して、聖書の他の箇所を参照するというほんのささいな努力もしていません。もし聖書を参照するなら、以下の箇所を探すことができるでしょう。

”エレミヤ書 23:15 それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。」”

この箇所を見る時、「苦よもぎ」が預言者、すなわち今の時代においては教師の罪と関係する裁きであることがわかるでしょう。教師はみことばや聖霊の油注ぎと関係があります。核や原発とは何の関係もないことがわかるでしょう。彼等は「たとえを理解する」ことを語った主のことばに堅く立とうとしません。
逆にこの世の考えに満ちた注解書やこの世の新聞記事を優先し、神のことばをないがしろにしています。聖書より、注解書やら、この世の新聞記事の知識なりに心が満ちている彼等がこの箇所を正しく理解できないのは当然のことです。
彼等は「盲人を手引きする盲人」です。だから、チェルノブイリなどという見え透いた惑わしに
みごとにひっかかるのです。

この箇所を解釈してみましょう。預言者、すなわち教師は命のパンなるみことば、そして命の水なる聖霊に関係しています。彼等は会衆にみことばと聖霊の油注ぎをもって奉仕する立場の人々です。
しかし、この終末の時、「汚れがエルサレムの預言者たちから出」ます。彼等を通して、
逆にみことばは曲げられ、聖霊の油注ぎは汚されます。それで、主は彼等にパンのかわりに
「苦よもぎ」を食べさせ、「水」のかわりに「毒の水」を与えるといわれるのです。

”エレミヤ書 9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。”

ここでも主は民にいのちのパン、命の水ならぬ、「苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」と
いわれています。彼等はみことばを侮り、聖霊を侮ったために、その報いを受けるのです。

黙示録の「川の水の三分の一は苦よもぎのようになった」との表現も同じことをさします。
川の水、すなわち聖霊の働きは川の水のように人々を生かし、草木や獣を潤すものです。しかし、
この終末の時、川の水、すなわち聖霊の働きは苦よもぎに変わります。
すなわち、同じ霊でも悪霊の働きに変わるのです。聖霊は命を与えるものですが、悪霊は死をもたらします。ですから、「水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。"」のです。
これらの人々は悪霊による「金歯」などのしるしと不思議に気を取られているうちに永遠の命を失います。

さて、苦よもぎについて書くのが、今回の主旨ではありません。
上記テキスト箇所では、1/3という数字が多用されていることに注目して欲しいのです。
聖書の一つの方法として、同じことば、同じ数字には何か意味があります。
ここで「地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け」と1/3という数字が多用されていることには、
隠れた意味あいがあるのです。以前、私達は、聖書に何度も出てくる3年半という期間は同じ期間、
終末の大艱難時代をさすことを見ました。ですから、エリヤの時、三年半、雨が降らなかった期間は、
この期間を示す隠れたたとえです。終末の大艱難時代も雨、聖霊の下らない、ききんの時だということが
わかります。同じように主イエスが公生涯にたたれた三年半もこの期間の型です。ですから、
艱難時代とは、いわば主イエスが受けた艱難が繰り返されるときだということを理解できるのです。
主イエスを迫害した人々は聖書を知らない異邦人ではなく、かえって、律法学者、パリサイ人達、
すなわち、宗教の専門家でした。だから、終末の大艱難時代に主につく人々を迫害するのも聖書、宗教の専門家であることが予想できるのです。
聖書が神の知恵により書かれたものであること、それゆえ書かれたどんな数字やことばにも関連や意味あいがあることを理解する時、これらのことが開かれてきます。

さて、1/3の数字について考えます。どうして、テキストの箇所ではこの数字が多用されているのでしょうか。その理由はこれらの複数のことがらは皆本質的に同じことをさしているからです。これらの災害は実はそれぞれ、関係があるのです。似たようなものなのです。それで、ここで繰り返し、繰り返し、1/3という数字が使われているのです。
以下にざっと見ます。

”すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。”

地は天ではないところです。この世につくクリスチャンのいるところです。
木はぶどうの木のようにクリスチャンのたとえです。
彼等は、血の混じった雹と火、すなわち悪霊のリバイバルの霊を受け、燃えます。


8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。”

海は水、聖霊のあるところであり、魚、すなわち、クリスチャンの住むところですが、そこも1/3が「血」
すなわち悪霊の場所となります。

”9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。”

いのちあるものとは聖霊の永遠のいのちを受けているクリスチャンのたとえです。彼等は霊的に死にます。船は教会のたとえです。
 

”10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。”

川々という時、ヨハネの福音書の「私を信じる者には、その腹から命の水が川々(聖霊)となって流れる」とのことばを思い起こすことが大事です。ですから、聖霊のかわりに悪霊が働き、苦よもぎのようになるのです。結果としてクリスチャンの永遠の命は失われ、「その水(悪霊)のために多くの人が死んだ」となります。
 

”12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。”

太陽、月、星は「天の星のようになる」といわれたアブラハムの霊的子孫であるクリスチャンのたとえです。ですから、このテキストに書かれていることは、教会、聖霊の働き、クリスチャン、これらの関係あることがらが、神のさばきの中で害される、裁かれることが書かれているのです。
決してそれぞれが関係のないことがらではないのです。この関係を我々に悟らせるため、聖書は1/3という共通のことばをわざわざ使用しているのです。このことを悟らなければなりません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー