No.186 ヨブの苦難


"テキスト:。
ヤコブの手紙 5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。"

聖書という本の一つの特徴は終末についての記述が多いということです。六六巻の中の多くの書が終末に関係しています。さて、このヨブ記も例外ではありません。上記テキストを見るとき、終末とヨブ記の記述が関係のあることがわかります。少しテキストに沿って見てみます。

”9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。”

        ここでは、裁きの主が再び来られる事について書かれています。で すから、このヨブの記述は終末と関係して語られていることがわかります。すなわちヨブ記は「終末を迎えるクリスチャンへの備え」として書かれたのです。

”10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。”

旧約の預言者、イザヤ、エレミヤ等の預言者の歩みとその苦難と忍耐は終末の日に主のことばに固く立つ、主につく神の民への模範です。黙示録11章には終末の預言者が2人書いてありますが、これは、
単なる2人の個人をさすのではなく、終末の日に固く神のことばに立つ神の民全体の型なのです。

11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。"

「耐え忍んだ人たちは幸いである」と書かれています。ですから、終末の日は艱難の日なのです。
「聖書には書いていないが、実はその艱難の日(大艱難)の前に秘密の再臨があって、こっそり挙げてくれるから心配しなくていいよ」などと、嘘八百の段階携挙説にだまされ、そなえを怠ってはいけません。
キリストは前もって、岩の上に家をたてることを語り、明確に終末の日に対して備えを語っているのです。誰にもどんな風にも騙されてはいけないのです。
また、「ヨブの忍耐のことを聞いています。」と書かれています。このことばにより、ヨブ記はその艱難の日に対する私達への備えとして書かれたことを知るのです。

さて、ヨブの苦難とは具体的にどのようなものでしょう。それを見ていきましょう。

”ヨブ1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。”

ヨブの苦難は、牛、ろばが殺されたこと、羊が焼かれたこと、らくだが襲われたこと、子供たちが死んでしまったこ等です。聖書はこれらのために数節づつを用いて記述しています。

ヨブ2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。”

ヨブの次の苦難は腫物で体を打たれたことです。聖書はこのことのためにも数節を用いています。
さて、これでヨブの苦難は終わりでしょうか。そうではありません。聖書はヨブのさらに別の苦難について語っています。それはなんでしょう。その一つは、ヨブの親しい友人ー彼等は神を信じる人々ですーがヨブの苦難は彼が罪をおかしたからだと非難したことです。以下のように書かれています。

ヨブ記 32:3 彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。”

彼等3人の友人は、ヨブの苦難を見て、慰めに来たつもりですが、結果として、彼等は、
自分達の固定観念に基づき、「罪が有るからこんな苦難にあうのだ」とヨブを非難することに終始しているのです。

そして、もう一つのことはヨブ自身、何故
神が自分をこのような苦難にあわせるのか理解できなかったことです。それで、ヨブの三人の友人はことばを変え、話題を変え、そして、ヨブを非難しています。そして、ヨブはそれらの友人の非難に対して、
自分の罪のないことを訴え、かつ何故、神が自分を何故このような目にあわせるのか理解できないと嘆いています。聖書はこのことの記述に3章から37章迄、計35章を使っています。比べるまでもなく、前者の苦難(羊や牛、子供達がとられること、自分の肉体の苦難)より、後者の苦難(友人の非難、神への疑問)に聖書が多くのスペースを割いていることがわかるのです。
それで、終末の日における主につく人々が備え、理解しておかなければならない特別な苦難が、2つあることがわかります。

1 他のクリスチャンからの「お前がこのような苦難に会うのは神に罪を犯したからだ」という非難。
2 自分自身の心から起きる、神への疑問。

終末の日はどのような日でしょうか。聖書はその日は、ヨブ記を通して、真に神につく人々が、
神に対して忠実であるがゆえに困難を受ける日であることを語っています。そして、周りの
「神を信じる」という人々から何故、苦難を受けるのか理解してもらえない、それどころか、「お前に罪があるからだ」と誤解、非難される日なのです。

ヨブはかつて神に喜ばれ、人を助ける者でした。彼はこのようにいっています。

”29:2 ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。
3 あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。
4 私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。
5 全能者がまだ私とともにおられたとき、私の子どもたちは、私の回りにいた。
6 あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。
7 私は町の門に出て行き、私のすわる所を広場に設けた。
8 若者たちは私を見て身をひき、年老いた者も起き上がって立った。
9 つかさたちは黙ってしまい、手を口に当てていた。
10 首長たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。
11 私について聞いた耳は、私を賞賛し、私を見た目は、それをあかしした。
12 それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
13 死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。
14 私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。
15 私は盲人の目となり、足なえの足となった。
16 私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。
17 私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。
18 そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。
19 私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。
20 私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。
21 人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。
22 私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。
23 彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。
24 私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。
25 私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。”
 

この箇所を少し見てみましょう。

”3 あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。”

彼は神の光の中を歩くクリスチャンの型です。

”6 あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。”

乳は「みことばの乳」とあるように、みことばのたとえです。油の流れとは聖霊のたとえです。
だから、彼はみことばと聖霊に満ちたクリスチャンの型なのです。

11 私について聞いた耳は、私を賞賛し、私を見た目は、それをあかしした。”

彼はあかしのあるクリスチャンであり、名声があったのです。

12 それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。
13 死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。”

彼は多くの信仰の弱い人々を助けました。

14 私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。”

彼は正しさに満ちているクリスチャンです。

15 私は盲人の目となり、足なえの足となった。”

彼の霊の目は開かれており、信仰の歩みはしっかりとしていたのです。
しかし、そのような模範的なクリスチャンが苦難に会う、終末とはそのような時なのです。
また、彼は以下のようにいいます。3
 

”30:9 それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。
10 彼らは私を忌みきらって、私から遠ざかり、私の顔に情け容赦もなくつばきを吐きかける。
11 神が私の綱を解いて、私を悩まされたので、彼らも手綱を私の前に投げ捨てた。
12 この悪童どもは、私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に向かって滅びの道を築いた。
13 彼らは私の通り道をこわし、私の滅びを推し進める。だれも彼らを押し止める者はいない。
14 彼らは、広い破れ口からはいって来るように、あらしの中を押し寄せて来る。
15 恐怖が私にふりかかり、私の威厳を、あの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った。”

ですから、どうぞ、このことを覚えて下さい。自分に何の罪もないのに、なおかつ人々から、
嘲られたり、ののしられたりする日が終末には来るのです。もちろん、全てのクリスチャンに来るのではなく、真に主につく人々にです。例えば、日本でも先の戦争では、牧師が投獄されたり、死に至った人々もいます。彼等は信仰のゆえに苦難を受けたのです。しかし、全ての教会がキリストのゆえに苦難を受けたのではなく、逆に彼等を切り捨て、非難した教会、クリスチャンもいたのです。

さて、上記は、ヨブの苦難に関するものですが、これらはまた主イエスの苦難をも想起させる文章です。
何故なら、主御自身も嘲られたり、ののしられたり、笑いぐさになったからです。また、主も自分の苦難の意味がわからなかったのでしょうか、十字架上で「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」と言われているのです。ですから、ヨブの苦難は主イエスの時代にいわば再現されているのです。そして、恐らくこれはまた、終末の真に主に従おうとする人々にも起きてくることがらなのです。

ヨブ記の一つの特徴は、読み手はその一番最初の章で、彼の「苦難の理由」をはっきりと知らされているということです。ヨブ記の始めにはこう書かれています。

”ヨブ記 2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」”

この記述により、これらの苦難は神というよりサタンから、出たものであり、神はその申し出を許されたことを読み手である我々ははっきり見るのです。
しかし、面白いことには、我々読み手には、始めから分かっている、自明であるこの事情を肝心の主人公であるヨブは全くわかっていない、知らされていないのです。それで、延々と「何故なのか」ということを、神の前、友の前で訴えているのです。この読み手と主人公の知識のギャップはこの書の一つの特徴です。そして、このことには意味があるように思えるのです。
「サタンが主につく義人を彼が義人であるために迫害し、許可を得ること」「この艱難はサタンから来たものであり、神が下しているのではないこと」
これらのことを知らせる為に神はこのような方法で記述したのではないかと
私には思えるのです。
 

すなわち、終末の日の神の民にとって大事なのはこのことをはっきり知ることであり、これをはっきりと知らないと、我々は敵に惑わされてしまうのではないかと思えるのです。
終末の日における、主のみこころを行いましょう。

ー以上ー