No.185  姦淫の教会


テキスト:しん言7:5 それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。
6 私が私の家の窓の格子窓から見おろして、
7 わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。
8 彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。
9 それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。
10 すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。
11 この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、
12 あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。
13 この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。
14 「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。
15 それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜して、やっとあなたを見つけました。
16 私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、
17 没薬、アロエ、肉桂で、私の床をにおわせました。
18 さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。
19 夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。
20 金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません。」と。
21 女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。
22 彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、
23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。
24 子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。
25 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。
26 彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。
27 彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。

本日は「姦淫の教会」という題でメッセージします。女は教会のたとえです。教会と一口にいっても、
色々な種類の教会があります。主に忠実な教会もあれば、不忠実な、この世と姦淫を犯している教会もあります。聖書はそのような教会に関して、警告を与えています。今日はそれを見ていきたいと思います。

以下順にみます。

5 それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。”

この女、教会は本来、他人の妻、すなわち、夫であるキリストに忠実をつくすべき存在です。
しかし、終末の日に、夫を裏切り、キリストを裏切り、姦淫を行います。

6 私が私の家の窓の格子窓から見おろして、
7 わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。

夫を捨てた女、すなわち教会と関係を持つことは、それは自分も神に対して、姦淫を犯すことになるのですが、しかし、わきまえのない愚かな若者はこれにだまされます。

:8 彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。
9 それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。”

暗闇のころとは、明るい光に満ちた時ではありません。「世の光」と言われたキリスト、聖霊が教会から追い出され、おられなくなった、終末の時代にこのことは起こります。

”10 すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。”

この女は遊女の装いをした女です。これは黙示録の淫婦バビロンに通じます。
バビロンも淫婦と呼ばれているからです。

”11 この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、
12 あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。”

この女、教会は「御しにく」いと書いてあります。神の教え、戒めに従わないわけです。

”13 この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。
14 「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。”

彼女はいけにえをささげます。教会もささげものをします。ですから、形の上では神の前に
行いがあるように見えるのです。

”16 私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、
17 没薬、アロエ、肉桂で、私の床をにおわせました。”

”エジプトの亜麻布”と書いてあります。エジプトはこの世を表します。彼女はこの世につく教会です。

”19 夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。
20 金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません。」と。”

遠くへ旅に出て帰ってこない夫とはキリストのことです。キリストの再臨が遅いから、
この世の楽しみに浸ろうとこの教会はいっているわけです。

”21 女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。
22 彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、”

このような姦淫の教会の教えの後につき従う人は愚か者です。

”23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。”

このような姦淫の女、教会の教えに従うことは、単に教理上の間違いとか、知識が多い少ないの
問題ではありません。「自分のいのちがかかっているのを知らない。」と書かれているように、
これは、他でも無い、いのち、永遠の命に関わる問題なのです。ですから、教会の選択は私達の
命がかかっているのです。学校や会社、場合にはよっては結婚相手を選ぶことよりこのことは重大な選択かもしれません。

”24 子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。”

このような女、教会の偽りの教えに従うより、主に聞き従う、すなわち聖霊の声に聞き従うことにこそ、大事な点があります。

”25 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。”

彼女の道、すなわち、姦淫の女の道は「道であり真理であり、命である」と言われた方の道とは、
異なっています。聖書のことばがその教会で語られているようですが、実は、
どれもこれも道を曲げています。
「偶像を礼拝するな」と聖書は語るのに、その教会では、マリヤの象を拝しています。「地上の誰をも
父、先生、師と呼ぶな」と聖書は語っているのにその教会では、法王を父と呼びます。他の教会では牧師を先生と呼んでいます。これらは明白にみことばを曲げた道です。

”26 彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。”

切り倒すとは剣で倒れるわけです。剣はみことばのたとえであり、この教会では、みことばが
曲げて語られることが暗示されます。「実はキリストの再臨は2回ある。一回目は聖書にはっきり書いていない秘密の再臨だ。」などと聖書にもないトンデモ話を信者に吹聴し、信者の終末の備えを奪い取っている教会の教えに倒されていく信者は多いのです。「彼女に殺された者は数えきれない」と書かれています。ですから、姦淫の教会に従い、その結果霊の命を失う信者は非常に多いのです。教会は選ばなければならないのです。

27 彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。”

彼女は教会のたとえであり、そこへ行くと「よみへの道」下るといわれる教会があることがわかります。
このような教会に決してかかわりあってはいけません。教会ならどこでもよいなどと、聖書は
決して語っていないことを知らなければ、なりません。逆に、「死の部屋に下って行く」教会があるのです。吟味し、選ばなければなりません。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー