No.184 新天新地について

テキスト:”ヨハネの黙示録 21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。”

本日は「新天新地」という題でメッセージします。黙示録を解釈する多くの人々は、この新天新地を
文字通り、今の「飛行機が飛ぶ天」や「自動車が動く地」が新しくなることだと解釈しています。
彼等は「聖書は字句通り、逐語的に解釈するものであり、霊的解釈はいけない」などとわけのわからないことを言っています。霊的解釈とは何のことかわかりませんが、要は彼等は「たとえを解釈するな」といっているのです。

私は随分聖書を読んできたつもりですが、彼等のいう「字句通り、逐語的に読め」と命じている聖書の箇所を今だに発見できないでいます。逆にたとえを解釈することについては明確な聖書の箇所を探すことができます。いくら探しても「字句通り、逐語的に読め」などとみつからないのも道理で、そんなことはそもそも聖書に書いていないのです。「まことしやかな」理論で、聖書の「たとえ」を追放しようとする彼等はまことにこの世の考えで聖書を変え、曲げる「愚か者」です。
「たとえ」の書、黙示録に記されている「新天新地」ということばを何のたとえの解釈もせず(できず?)、会衆にわけのわからない教えを伝えている彼等は手抜きの人々か、それとも「盲人を手引きする盲人」でしょうか。

さて、上記新しい天と地のたとえを見ていきましょう。
このたとえのヒントとなるのは、創世記のアブラハムの子孫に関する「天の星、地の砂」ということばと思われます。
アブラハムは旧約のイスラエル人の先祖ですが、また、新約のクリスチャンの霊的先祖でもあります。
アブラハムの子孫に関しては、「星のよう、砂のよう」になることが語られました。ですから、我々クリスチャンは、星、砂にたとえられるものなのです。そして、星は天にあり、砂は地にあることをとらえて下さい。ですから、天と地とはクリスチャンのいる所、すなわち、これも教会のたとえであることを知るのです。

さて、このことを基本として、上記テキストを
見ていきましょう。

”1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。”

ここで新しい天と地について書かれており、また古い天と地が過ぎ去っていくことが書かれています。
天地が過ぎ去ることに関しては以下の箇所が関連しています。

”マタイ5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない(pass away-
過ぎ去る)限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。”

この箇所を見ていきましょう。

”7 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。”

多くの人は旧約の多くのことば、預言者のことばは廃棄されたと思っています。しかし、そうでは
ありません。今、まさにこれらのことばは成就するのです。

”18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない(pass away-
過ぎ去る)限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。”

ここでは、天地が過ぎ去ることと、律法、すなわち、神のことばの教えとが関連して語られているのです。
律法の中の一点一画がすたれるよりは、天地が過ぎ去る方がたやすいことがわかります。
天地は教会のたとえです。すなわち、聖書のことばと教会の教えがぶつかったなら、聖書のことばをとること、その一点一画でさえ、曲げたり、後退してはいけないことについて書いてあるのです。
神のみことばと教会の教えがぶつかり、衝突することはありえるでしょうか。これはあってはいけないことですが、しかし、現実には有り得ます。たとえば、ローマ法皇は「進化論」を認めたということです。
これは、「神が...種類にしたがって、つくられた」との創世記のことばと真っ向からぶつかる教えです。
また、彼は「終末はない」と語ったそうです。これは、終末に関して書かれている多くの聖書箇所と全く矛盾します。どちらかが正しいのであり、私達はどちらかをとらねばならないのです。ローマ法皇がなんぼのものか、また彼の嘘に追随する教会がどれ程大きく、人数がどれ程いるか知りませんが、しかし、これらの律法と真っ向からぶつかる天地(教会)はその日、過ぎ去ることを知らなければなりません。ファテイマを始めとする嘘つきのマリヤの霊にすっかりだまされ、(マリヤの予言はみな外れている)法皇の教えに従い、神のことばをすてる人々はその日、恥をみるでしょう。

”19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。”

戒めの小さなものの一つでも破るよう教えるものは、「天の御国で、最も小さい者と呼ばれ」るのです。
まして、キリストが度々語った終末に関する教えを公然と破り、「終末はない」などと教えている法皇はどうなるのでしょう。「小さな者」でも天の御国に入れれば、良いでしょうが、彼は意図的に人々を誤りに導き、獣化しているのであり、そのような人が果たして「天の御国」に入れるかどうかもあやしいかもしれません。そして、彼に同調し、だまされる多くの神父達、信者も獣化され、同じように「過ぎ去って」しまうことを理解しなければなりません。

ファテイマを始めとするマリヤは黙示録に記されている「しるしを行う悪霊」の類いであり、彼女が
「私は私の育てて来た法皇を神から与えられたのです」などと現法皇に関していったとかいうことです。このように特別にマリヤに言われているということは、まったく今の法皇は怪しいということなのです。確かにこの法皇になってからのローマ教の信仰の後退は著しく、そういう意味では確かに彼は彼女(悪霊)に育てられているのです。「マリヤのことばのいくつかは正しかった」からといって、盲信する人は恥をみます。嘘つきは、何もかも嘘をつくわけではなく、幾つかの真実の中に少しの嘘を混ぜるのです。現教皇に関することばはまさに彼女の嘘の真骨頂です。

”しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。”

今は聖書のみことばと神の律法に反した誤りと偽りの教えに満ちた時代です。このような時代に神のことばを「自分で守り」かつ「人に守るよう教える」ことは難しく、また苦難にあうことなのです。

皆が「パパ様、パパ様」などといっている時に「地上の誰をも父と呼んではいけない、私達の父は天の父だけだ」などといえば、教会を追い出されるかもしれません。また、皆がみことばに付け加えた教え「段階携挙説」にあえて疑問を出さないのに、勇気をもって、「聖書のどこにキリストが2度来ると書いてあるのだ」などということは、教会を追い出される理由になるかもしれません。
しかし、たとえもしこれらの犠牲を払ったとしても私達が「それを守り、また守るように教える」なら「天の御国で、偉大な者と呼ばれ」ることを知らなければなりません。

主イエスはまさに犠牲を払い、そして、私達に「それを守り、また守るように教え」た方ですが、彼こそ「天の御国で、偉大な者と呼ばれ」た方であることを私達は知るのです。

たとえ教会(天地)とみことばとが衝突しても、矛盾したとしてもどちらも永遠に残れば多くの人にとっては都合がよいのでしょうが、聖書はそうは述べていません。後の日にこの2つはぶつかること、そして、その時、どちらかが過ぎ去る、すなわち、どちらかは神の前に留まれないことを述べているのです。
そして、過ぎ去るのは、天地であり、残り、留まるのは神のみことばであるとはっきりと明白に述べられています。私達はどれ程、この神のことばに堅く立たなければ、ならないかを知るのです。

もとのテキストの続きを見ます。

”2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。”

1節では新しい天と地に書かれていますが、この2節では新しいエルサレムについて書かれています。
実は、この両者は同じものなのです。ですから、このように並行的に書かれているのです。
新しいエルサレムは古い裁かれるべきエルサレムとは違います。これは終末の日に回復する教会を述べているのです。そして、同じように、ここに古い天地と新しい天地があるのです。古い天地はみことばに従うことを拒み、その結果、過ぎ去っていく教会です。逆に新しい天地はみことばに従う、終末の回復された教会です。

さて、この天地に関してもう一つ別の記述を見ます。

”ペテロの手紙第二 3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。”
 

順に見ていきます。

”10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。”

”主の日は、盗人のようにやって来ます。”と書かれています。聖書が盗人のように来るという以上、それはやっぱり、我々にはわからないように来ると思った方がよいのです。「まだまだ」などといっている人は後で後悔するでしょう。私達は今、悔い改めて、主の道に堅く立ちましょう。

そして、”その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。”と書かれています。

天の万象、すなわち、星、月、太陽が焼けること、焼き尽くされることについて書かれているのです。
これは、終末の日はロトの日であると書かれていることと関連するようです。ロトの日にソドムが焼かれたように終末の日には、火、悪霊がこの世につく人々とそのわざを焼きつくします。

”11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。”

ここでは、くずれ落ちることと敬虔な人になることとが同時に述べられています。ですから、これらの人々が焼かれるのは、実は神の前に不敬虔であり、神のことばをないがしろにしたからであることが
推察できるのです。もし私達の目が開かれるなら、この天と地が焼かれる、天の万象が焼かれるということがもう既に始まっていることを知るでしょう。このことは愚かで何も見えない聖書学者がいうように、ずっと先のことではないのです。彼等は大層にも図解までして終末の解説をしますが、彼等自身が見ていないことをどうやって説明するつもりなのでしょう。
ペンサコーラ等の悪霊のリバイバルはこの日本でもますます燃え盛っており、多くの「天の万象」、
星にたとえられるクリスチャンはこの霊の偽りの火に焼かれています。

”2 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。”

ここでも天が燃えること、天の万象が焼け溶けることについて書かれています。ですから、火で象徴される終末の悪霊の惑わし、そのリバイバルは、ペテロの昔から、いいえノア、ロトの記述されている創世記の昔から、預言され、警告されていたことを知らなければなりません。

そして、この火は何と我々のこの時代に燃え始めたのです(!)。主を恐れ、またみことばを恐れなければなりません。聖霊を求め、尋ね求める人々はこのような時代でもこの方に会い、聖霊に会うことを知らなければなりません。

”13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。”

主はこの時代に「新しい天と新しい地」が起こることを預言されています。ここには正義が住み、
偽りや聖書の教えを曲げる人々はいないのです。逆に古い天地は、そのみことばを曲げる偽りの行いのため、裁かれ過ぎ去ってしまったことをみるのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
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