No.181 教会に関するたとえ(家)

テキスト: ”ペテロの手紙第一 4:17 なぜなら、さばきが神のから始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。”

聖書の基本的なトピックに関するたとえを見ていきましょう。まず、「教会」、その中の「家」に関するたとえを見ていきましょう。
上記テキストの中では、教会を「神の家」と呼んでいます。それで、家は教会のたとえだということがわかります。このことに注目し、たとえを理解しない弟子を叱責した主の教えを守っていく人は正しい理解に達します。
以下、家に関するたとえを見ていきます。

”マタイの福音書 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分のを建てた賢い人に比べることができます。”

家は教会のたとえです。ですから、岩ー弟子として、みことばを行う道を歩む人々は、岩の上に
家、教会を立て上げる人々です。その教会は終末の日にも崩れません。

”マタイの福音書 10:6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。”

主はまず、イスラエルの家、クリスチャンの教会にこの知らせを告げるように語られています。

”マタイの福音書 10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。”

家長は家の頭です。教会のかしらはもちろん、キリストです。主に従うクリスチャンは終末の日に
イエスが受けた以上の扱いを人々から期待してはいけません。どのように真実をつくしても”ベルゼブル”いやそれ以上にひどいことをいわれる日がくるでしょう。しかし、このことは前もって語られています。

”マタイの福音書 19:29 また、わたしの名のために、、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。”

キリストの名のため、またみことばを最後迄、ゆずらない為、たとえば、段階携挙説などの理由により、
家、教会を捨てる、追い出されるようなこと、また似たようなことがあるかもしれません。
また、教会の兄弟、姉妹、父なる牧師から捨てられることがあるかもしれません。また、自分の畑、
すなわちみことばをもって養った人々から引き離されることがあるかもしれません。
しかし、それが主の名のためなら、”すべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継”ぐことを知らなければなりません。

”マタイの福音書 21:13 そして彼らに言われた。「『わたしのは祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」”

神の家、教会は祈りの家であるべきです。鳩(聖霊のたとえ)を売り買いするものが裁かれる日がきます。

”ルカの福音書 18:28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」”

終末の日、私達が家、みこころから外れた教会を捨ててでも主に従わなければならない日は確かにあります。

コリント人への手紙第一 3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。”

土台をパウロが据え、他の人が家、教会をその上に建てます。しかし、どのように建てるかについては、
注意しなければならないのです。

”テモテへの手紙第一 3:15 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神のとは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。”

ここでも教会が神の家であることが語られています。

”テモテへの手紙第一 5:13 そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。”

家々を遊び歩くとはたとえです。終末の日に、家々、いくつもの教会を回り、うわさ話を広げる人々が起こります。

"
テモテへの手紙第二 2:20 大きなには、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。"

家は教会のたとえであり、教会の中には、尊い働きに入る器と卑しいことに用いられる器があることが書いてあります。
 

”テモテへの手紙第二 3:6 こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、”

女も家も教会のたとえです。教会をたぶらかし、罪に引きずり込む惑わす人々は常に私達の回りにあります。

”ヘブル人への手紙 3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。”

「もし私達が..神の家なのです。」とは意味深い書きかたです。このことばによれば、私達の教会が
無条件に「神の家」であるわけではなく、あくまで、「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」ならば神の家なのです。逆に終末の日の揺るがしにより愚かにもくずれていく、砂の上の家は、神の目には、教会ではないのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー