No.180 複数のたとえ

テキスト: ヨハネの黙示録 8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
ヨハネの黙示録 8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
ヨハネの黙示録 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
ヨハネの黙示録 8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
ヨハネの黙示録 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
ヨハネの黙示録 8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
ヨハネの黙示録 8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

本日は「複数のたとえ」として、メッセージします。
聖書のたとえを理解しようとする時、気をつけなければいけないことは、この聖書という特定の本の目的、強調点です。
聖書には、本としてのはっきりした目的があり、他の本とはっきり区別できる特徴があります。
たとえば、パンコンのマニュアルがあったとします。これも本の一つです。このマニュアルに書かれているトピック、主題、良く出てくる単語、ことば等は特定のものであり、かたよっています。

たとえば、PC, キーボード、ソフトウエア等の単語はよく、出てくるでしょう。しかし、源氏物語、クリントン大統領、サンドイッチ等の単語は出てきません。また、万一出てきたとしても、繰り返し、何度もは出てきません。
頻度は少ないはずです。何故なら、パソコンのマニュアルは「パソコンの操作を理解したい人々」を対象にしたパソコン操作の解説書だからです。本には、それを読む対象者があり、特定のテーマがあるのです。
こんなことは当たり前のことですし、その本の性格を考えれば、出てくる内容もおおよそさっしがつくのです。

さて、同じ意味あいで、聖書には、はっきりとした、読者対象があり、また、頻繁に出てくるトピックがあります。

1コリ10:11「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」

ここに聖書(ここでは特に荒野の箇所)が書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私達、クリスチャンのためであることが書かれています。ですから、聖書はクリスチャンを対象として書かれたものであり、
また、世の終わりに臨む人々への教訓という意味あいがあるのです。

さて、クリスチャンとして知らなければならない必要なことがら、またクリスチャンライフ、信仰生活によく出てくるトピック、項目を考えてみましょう。
それは、あげてみれば、教会、神、キリスト、聖霊、義、罪、罪の許し、兄弟姉妹、牧師、教師、聖書等のトピックでしょうか。こうして、あげてみるとクリスチャン生活で必須、大事なトピックはそれ程、多くはなく、結構限られた種類のものだということがわかります。

これらのトピック、ことがらが信仰生活には、とても大事だということがどのクリスチャンにもわかります。これは日本人だとか、アメリカ人クリスチャンだとかにかかわらず、また教派を超えて必要なことがらです。さて、神御自身は、これらのことがら、トピックがクリスチャンにとり大事であることをよく御存じなのです。
それで、神は上記のことがらを繰り返し、繰り返し、たとえの中で語っているのです。
特にみことば、聖霊、教会等のトピックに関しては、繰り返し繰り返し、しつこい程聖書の中で語られています。

逆にそれ以外のこと、クリスチャン生活に通常おきてくるトピック以外のことについては、
聖書の中でほとんど語られていないようです。(聖書の暗号は別です)
パソコンのマニュアルの中で書かれている、トピックも限られた範疇のものであるように、
聖書のたとえのトピックも限られた範囲のトピックが繰り返し繰り返し語られているのです。
このことはたとえを理解する上での一つ大事な面です。
さて、聖書のたとえのもう一つの面を申し上げたいと思います。それは、聖書のたとえは、
同じ一つのことがらを色々なたとえ、いくつもの複数のたとえで語られているということです。

例として「教会」について、聖書は多くのたとえをもって語っています。
家、都、神殿(宮)、女、からだ、海、山、船等です。教会と一口にいっても、そこには、色々な面があるのですが、これらの何種類もの教会に関するたとえは、教会のそれぞれの面を表しています。

家:
”1テモテ3:15それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神のとは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。”

家の中には、父、母、兄弟、姉妹がいます。同じように教会にも霊の父、母、またキリストにある兄弟、姉妹がいます。家とは、教会のこれらの面、関係を強調するたとえなのです。

都:

”歴代誌第二 32:18 さらに、彼らは城壁の上にいたエルサレムの民に向かい、ユダのことばで大声に呼ばわり、彼らを恐れさせ、おじけさせて、この町を取ろうとした。”

都は、多くの人が集まります。また、例えば、エルサレムのような都には、城壁がめぐらされており、
簡単には入れず、その外の領域とは、明確に区分されています。教会も、実は城壁を持つものであり、
外の世界とは、明確に区分されたものなのです。都とは、教会のその面をさすたとえです。
 

神殿(宮):
神殿とは、神を礼拝する場所としての面をさす教会のたとえです。
ですから、神殿に関する箇所を見ていく時、神がこの教会の礼拝という面に関してどう語っているのかを理解できます。

”歴代誌第二 6:28 もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、
29 だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の疫病と痛みを思い知らされて、このに向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、
30 あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天から聞いて、赦し、ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけが人の子らの心を知っておられるからです。”

宮、すなわち教会で祈られる祈りがききとどけられることについてここでは語っているのです。

さて、これらは「教会」についてのたとえです。聖書の中で教会は重要なテーマであり、聖書は教会に関して複数の多くのたとえをもって、微に入り細に入り、語っていることがわかります。これに限らず、たとえば、聖霊、クリスチャン等のことばに関してもそれぞれ、多くの種類の異なる複数のたとえが使われています。
 

聖霊:水、雨、川、火、鳩等です。
クリスチャン:羊、牛、ぶどうの木、オリーブの木、砂、石、星、太陽、月等です。

パソコンのマニュアルには、源氏物語についてもクリントン大統領についても全く何も書かれていません。
しかし、パソコンの使い方に関連して出てくるトピック、PCやらキーボード、マウスなりについては、微に入り、細にいり書かれています。何故なら、この本はパソコンを使いこなしたい人の為に書かれた本だからです。

同じように聖書は、クリスチャンのためのものであり、クリスチャンにとって必要なトピックが複数のたとえを通して、微にいり、細にいり、書かれているのです。

今迄のことをまとめます。
1 聖書は、ある特定のトピックに話題を絞った特定な本であり、たとえで扱われている内容は、
クリスチャンにとって必要なことがらに限定されている。

2 一つのトピックに対して、たとえば神、聖霊、教会等に関して、複数のたとえが使われている。

以上のことをはっきり理解するなら、私達は黙示録に関しても一歩理解に近付きます。黙示録は独立した
書、聖書の他の書と関係ない書ではなく、かえって聖書の他の書の延長線上にあるものです。
福音書等で扱われている聖書のたとえの多くは、クリスチャンの普通の生活に出てくる、教会、聖書、聖霊等のトピック、ことがらに集中しています。ですから、黙示録のたとえもやはり同じ流れ、同じようなトピックを扱っているのです。そうです、黙示録の多くの記事は、クリスチャン生活に頻繁に出てくることがらを「たとえ」として記してあるものなのです。

さて、このことをとらえながら、上記テキストを見てみましょう。

”ヨハネの黙示録 8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。”

血も雹も火も霊のたとえです。
終末の日には、教会を養い、導いていた聖霊が教会から追い出され、代わりに悪霊がとってかわります。

”そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。”

木にはオリーブの木、ぶどうの木のような
種類があります。そして、これはクリスチャンのたとえです。ですから、「木の三分の一も焼け」とは、クリスチャンと呼ばれる人々の1/3が悪霊のリバイバルの火に燃えていく、焼かれていく、そのことを語っています。

"
ヨハネの黙示録 8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。"

山は教会のたとえです。木は山に生えており、クリスチャンは教会に属します。「大きな山」ということばを理解するには、以下のことばを参照する必要があります。

”ゼカリヤ書 4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。”

この山は、バプテスマのヨハネの時、「主の道を供えよ、..全ての山は低くされ」のことばに出てくる山に通じます。「道であり、真理であり、命である」方のまっすぐな真理、命に至る道を曲げ、歩みを妨害しているのが、偽りの教理を奉じる教会、「山」です。この山は終末の油注がれた者の型であるベルゼブルの前に「平地となれ」と命じられているのです。

また、以下のことばとも関係しています。

”マタイの福音書 21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。”

偽りの教理に立つ教会がどれ程、大きな組織であろうと、命じるなら、海にはいることをここで述べています。そして、この山が黙示録の日には、海に入ることを我々はみます。「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。」とはこのことをさすのです。
段階携挙説を始めとする偽りの教えを奉じる教会が、海に投げ込まれる日は来るのです。

火の燃えている大きな山”

火は聖霊ならぬ悪霊の火です。ソドムが火で焼かれたように偽りの教会が火で焼かれる日がきます。

”そして海の三分の一が血となった”

海も川と同じく、水のあるところとして、霊と関係があります。海に例えられる教会には、本来水、聖霊が満ちています。この水、聖霊の中に、魚で例えられるクリスチャンが住んでいるわけです。しかし、終末の日、そこが、血となり、悪霊の働きに変わります。

ヨハネの黙示録 8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

海の中には、命のあるものとして、魚が住みます。魚は「人間をとる漁師にしよう」とのことばのように、クリスチャンのたとえです。彼等には、聖霊による、いのちがあります。しかし、
この時、今迄、自分達を生かしてくれた海の水が血、悪霊に変わる時、彼等の霊のいのちは失われるのです。

舟の三分の一も打ちこわされた。”

船は教会のたとえです。ヤコブ書に船と舵のたとえがあります。舵は教師のたとえであり、
船は教会のたとえです。

”ヨハネの黙示録 8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。”

星はクリスチャンのたとえです。燃えるとは火で燃えるのですが、火は霊のたとえです。これは
悪霊が働いていることをあらわします。

”川々の三分の一とその水源に落ちた。”

川には水が流れます。水源もそうです。水は霊のたとえです。聖霊が悪霊にとってかわられることを
さします。
 

ヨハネの黙示録 8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。”

苦よもぎを理解するには以下のことばを見ます。

”エレミヤ書 9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。”

神の民は、命のパンなるみことばを食べ、命の水なる聖霊を飲むものですが、さばきの日には、苦よもぎを食べ、毒の水を飲むようになります。

この日、川の水、すなわち聖霊の働きの1/3は苦よもぎのようになり、クリスチャンの1/3は命の聖霊を失い、結果として”その水のために多くの人が死んだ”となります。

”ヨハネの黙示録 8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。”

太陽、月、星はみなクリスチャン、そしてその働き人のたとえです。彼等は打たれて、光を失います。
「世の光」として、来られた方の霊、聖霊を追い出すので、結果として、彼等は盲目になるのです。エジプトを打った「闇」が彼等を被うのです。結果として、彼等は光を失い霊的に盲目となり、聖霊と悪霊の区別さえつかなくなります。彼等は”リバイバル”の中で滅んでいくのでしょう。

結論としてまとめます。
ですから、この黙示録9章の記事は、普通のクリスチャンが関係する、教会、みことば、聖霊等について、語っているのです。聖書は、第一義的に、「神の民」にあてて書かれたのですから、
当然、そのようなトピックが多くなるのです。「そんなに同じことばかりくり替えされているはずはない」
という意見もあるかもしれませんが、聖書とはそして黙示録とはそのような本であり、そのようなトピックについて書かれた本なのです。
聖書はクリスチャンに関係することがらを繰り返し、繰り返し語っており、黙示録もそのとおりなのです。
また、もう一つのことがあり、このテキストの箇所には、何度も何度も同じことがらが別のたとえ、表現で、繰り返されています。

教会の霊が聖霊から悪霊へ変わるということを、血の海、燃える星等の複数の異なる表現で繰り返して語られています。これは、出エジプト記の記事と似ています。エジプトは10の災害で打たれますが、その内容は、実は、どれも似たような同じことがらが別のたとえで繰り返して語られているのです。

これは、聖書の一つの特徴です。

ヨセフの時も痩せた穂、痩せた醜い牛と別々のたとえが語られたようですが、実は、これは全く同じことがら、終末のききんを別のたとえで繰り返して語っていたことがわかります。これは聖書のたとえの一つの原則なのです。

黙示録も同じです。表面的には全く異なったことをいくつも語っているようですが、
実は、同じことを語っているのです。”複数のたとえ”が使われているのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー