No.179 エジプトと呼ばれる都(その2)

出エジプト記 9:8 主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。
9 それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
10 それで彼らはかまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と獣につき、うみの出る腫物となった。”

6番目の災害は腫物です。腫物に関してはレビ記に以下のような記述があります。

”レビ記 13:18 また、人のからだの皮膚に腫物ができ、それがいやされたとき、
19 その腫物の局所に白色のはれもの、または赤みがかった白い光る斑点があれば、祭司に見せる。
20 祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、そこの毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはその腫物に吹き出たらい病の患部である。”

ここには、罪を象徴するらい病とともに腫物の記述があります。ですから、この腫物とは、罪と関係しているのです。おそらく罪が満ちることをさしていると思われます。
 

”出エジプト記 9:22 そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そう23 モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。
24 雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。
25 雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。”

7番目の災害は雹です。雹とは何をさすのでしょうか。以下の箇所がそのヒントを与えます。
 

”詩篇 105:32 主は雨にかえてを彼らに降らせ、燃える火を彼らの地に下された。”

ここを見ると、雹は雨の代わりにさばきとしてエジプト人に下ったことがわかります。

これは、何をさすのでしょう。雨は聖霊のたとえです。乾いた地も雨が降るとき、潤され、
人も獣も命を得、草木は育ちます。同じように、聖霊は命を与え、
クリスチャンを成長させます。

しかし、この時、雨、恵みの雨は、雹に変わります。すなわち、聖霊の反対のもの、悪霊に変わるのです。雨も雹もその成分は、同じです。水からできています。しかし、雨の代わりに雹が下れば、多くの災害が起きます。同じように同じ霊でも聖霊のかわりに悪霊が下るなら、多くのクリスチャンの霊の命は死んでしまいます。

”雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。”と書かれている通りです。

これは、聖霊と反対のもの、悪霊をあらわすたとえです。「燃える火を彼らの地に下された」との
表現にもヒントがあります。「火」は、霊のたとえです。ペンテコステの日に燃える舌がそれぞれの
人に下ったとあるように、火は霊を表します。そして、この終末のエジプト化した教会に、聖霊ならぬ、
悪霊の火が下るのです。

出エジプト記 9:31 「「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。
32 しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。「「”

これらの節は何を語るものでしょうか。マタイ13章の「毒麦」のたとえのように、麦はクリスチャンをさします。そして、ここで雹により倒されてしまう麦と倒されなかった麦とが出てきます。
この倒される麦と倒されない麦の違いは、実るのが早いか遅いかの違いです。すなわち、実るのが
遅い麦は倒されないのです。

おそらくこれは、終末のリバイバルで救われてくるクリスチャンとその前から救われている
クリスチャンの違いではないかと思います。すなわち、「救いは異邦人に」と書かれているように、
神に不信を重ねた古い世代のクリスチャンの多くはこの霊の惑わしの中で滅んでいくのでしょう。荒野のイスラエルの1世の世代のように。しかし、異邦人の世代、今、未信者といわれている人々の中には、この雹、悪霊の前に倒れない世代があらわれるのでしょう。
 

”出エジプト記 10:13 モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
14 いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。
15 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。”
 

8番目の災害は「いなご」の害です。これは何を意味するのでしょう。 理解する為に、
以下のヨエル書の記事が参考になると思われます。

”ヨエル書 1:1 ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。
2 長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。
3 これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。
4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。
5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。
6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。
7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。
8 若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。
9 穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。
10 畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。
11 農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。”

この箇所からわかることは、「いなご」は、ぶとう酒を荒らし、また麦を荒らすということです。
ぶどう酒は聖霊のたとえであり、麦はパンの原料です。すなわち、命のパン、みことばのたとえです。
聖霊の働きが荒らされ、みことばが荒らされることを語っているのです。

特に「一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。」との表現に注意して下さい。
一つの国民というように特定の国民がこの破壊に用いられるのです。
すなわち、一つの国民が、聖霊のリバイバルを悪霊のリバイバルに変え、聖書のみことばを曲げるために、神学校や、神学書を牛耳っているのです。
「いなごの害」それは、聖霊が、変えられ、みことばが曲げられる災いについて語っているのです。
 

”出エジプト記 10:21 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」
22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。”
 

9番目の災害は「やみ」の災害です。これは何をあらわすのでしょうか。これを理解するために、
「やみ」とは、「光がないこと」だということを理解しなければなりません。
すなわち、「世の光」といわれる方が去っていってしまい、「偽りの君の」暗黒の世界に入ってしまうのです。

以下のことばの通りです。

”ヨハネの福音書 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」”

イエスは世の光です。そして、彼を受け入れた盲人は目を開いてもらい、見えるようになりました。
一方、イエスを受け入れないパリサイ人達は、霊の目が見えず、霊的な盲人でした。
彼等は光を受けず、やみの中を歩んでいます。自分で、『私たちは目が見える。』と言っているのにもかかわらずです。彼等は聖書の知識や宗教的儀式には熱心でも真に光であるかたを除外し、結果として、「やみ」の中にいます。

同じように今の時代、聖霊として来られたイエスを受け入れず、その声に聞き従わない人々は
「やみ」の中にいるのです。
彼等には光がないため、何が聖霊か悪霊かの区別がつかず、終末について聖書が何を語っているのか、
見ることができません。彼等は光を追い出し、「やみ」の中にいるのです。 結果として、何が正しいリバイバル、聖霊の働きであるかを理解せず、聖書が終末についてどう語っているのかを理解しません。
 
"出エジプト記 10:24 パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」
25 モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。”

ここで、モーセ達は、神に仕えることについて語っています。これらのエジプト化した教会への、
災害は、逆に真に神に仕える者達をよりわける結果となります。真に神に仕える者達は、悪霊に満ちた教会を出ざるを得なくなります。

”出エジプト記 11:2 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」”

真の神の民は、この災害の中で、金、銀のかざりを得ます。金銀は、信仰をあらわすたとえであり、
彼等はこれらの災いの中で神への真の信仰を養われます。
 

”出エジプト記 11:4 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。
出5 エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。
出エジプト記 11:6 そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』”

10番目、最後の災いは、「死」です。これは何を意味するのでしょうか。

”11:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
 

”エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう”と書いてあります。
エジプト化した神の民、そして、神々の位置にすわってしまった働き人に、裁きが下される日がきます。
この裁きは、今までの他の裁きがそうであったように、おそらく悪霊に関するものでしょう。

”出エジプト記 12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。”
 

しかし、このエジプトに裁きが下される日に、イスラエル、真に神につく人々は、「血」のしるしにより、救われます。この「血」は主イエスの十字架の血の象徴です。そして、さらに見ていかなければ、
なりません。この血はまた、聖霊のたとえなのです。ヨハネの手紙に「御霊と水と血」と書かれている
ように、御霊のたとえはある時、水であり、また血なのです。
私達の罪、多くの汚れた罪や、性質、習慣は、この聖霊なる方に祈りの中で、触れ、浸るとき、いやされ、許され、清められていくのです。「全てのものは血によって清められる」と書いてある通りです。
しかし、悪霊のリバイバルには、何の罪のゆるしも解放もありません。逆に悪霊の「しるし」に従い、
金歯になったなどと喜んでいる人々は、罪のゆるし、解放を得ず、結果として霊的な死をむかえるでしょう。

さて、このイスラエル人に象徴される真の神の民は終末の日にも悪霊についていかず、血、神の御霊に
従う人々です。彼等の家々には、血、神の御霊が塗られ、罪は許されます。裁きは、彼等の家、
教会には入ってこないのです。

しかし、エジプト化した民、またその神々、すなわち、神の位置にすわる働き人の場合は違います。
彼等には、御霊による、血による罪の許しはなく、結果として、死を迎えるのです。
「罪が熟して死に至る」と書いてある通りです。彼等には以下のことばが成就します。

”ヘブル人への手紙 10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。”

この裁きの日にエジプトの初子が死に渡されます。これは、何を意味しているのでしょう。
これは恐らく、上記の「神の御子を踏みつけ」とのことばと関係します。イエスこそ、神の初子ですが、
この「神の子」を踏み付け、その霊をあなどる者たちへのさばきであることをこの「エジプトの初子」はあらわしているのでしょう。「主がその民をさばかれる。」とのことばはこの時、成就するのです。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー