No.178 エジプトと呼ばれる都(その1)

”テキスト:ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

本日は「エジプトと呼ばれる都”という題でメッセージしたいと思います。

聖書には、終末の日に裁かれるべき教会をバビロンと名付けています。ですから、終末の日の教会に関して、バビロンの記述をみていく時、多くのかたりかけがあります。さて、それとともに、聖書では、同じく裁かれるべき教会に関して、ソドム、エジプトという表現もしています。上記のテキストのことばのようにです。ですから、これらの記述を見ていく時、終末の教会に関して、別の面からの語りかけを受けることができるのです。

さて、このエジプトに関しては、出エジプト記が詳しいです。以下、出エジプト記の記述からみていきましょう。

”出エジプト記 7:4 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。”

出エジプト記の大きなテーマは「出エジプト」とのことばのとおり、イスラエル、神につける民が、エジプト、この世についた地から出てくることです。
同じように終末の日にも、エジプト化した、この世についた神の民の間から出てくる、真に神につく神の民がいます。そして、この時、「大きなさばき」がエジプト、この世化した教会に下されます。以下、エジプトを打つ全部で10の災害を見ていきましょう。

”出エジプト記 7:17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」”

1番めの災害はナイル川が血にかわることです。このことの終末に関するたとえの意味を見ていきましょう。杖により川が血に変わりました。一般的に杖は人の歩みを助けるものです。ですから、これは信仰の歩みを助ける、教師、牧師のたとえです。だから、杖が蛇に変わるとは、終末の日に、教師、牧師が蛇に変わる、みことばを偽るものにかわることをさしています。そして、その杖により、ナイルの水が打たれます。水が血に変わります。教会の中に働いていた聖霊は、彼等により悪霊にかわるのです。

”出エジプト記 7:25 主がナイルを打たれてから七日が満ちた。
出エジプト記 8:1 主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。”

エジプトを大きな災害でうつのは、イスラエルの民をエジプトから連れ出し、真の神に仕えさせるためです。今の時代、まさにこのことは起きています。聖霊と悪霊の区別のつかないエジプト化した神の民は、
このトロント、ペンサコーラ等の悪霊のリバイバルに飲み込まれていきます。しかし、真に聖霊に聞く神の民はこのリバイバルの本質を見分けています。彼等はエジプトから分離して真の神に仕えるのです。
この悪霊のリバイバル、川が血にかわることにより、いやでも「真に神につく民」はエジプト化した
教会を離れ、分離していきます。「歯が金になる」などとの悪霊のしるしから離れていきます。たしかに「しるし」は、神の民の分離を行います。
 

”出エジプト記 8:2 もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。
 

2番目の災害は「かえる」です。これは何を意味するものでしょうか。かえるについては、黙示録に記事があります。

”ヨハネの黙示録 16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。
14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。”

ここを見るとき、このかえるとは「汚れた霊」であることがわかります。また、「彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である」であることがわかります。今、ペンサコーラ等の聖会で、歯を金歯に変えるなどのしるしを行っているのは、まさにこの霊かもしれません。終末には、このような霊が働くことをはっきり聖書が述べているのですから、吟味もなしにこのような霊を受けて、大切な永遠の命を失うものとなるべきではありません。

出エジプト記 8:3 かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。
4 こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」”

「家に入る」と書いてあります。家は教会のたとえであり、教会にこの霊が入り込むことがわかります。
「あなたのこね鉢に、はいる。」と書いてあります。こね鉢は、パン粉をこねるものです。いのちのパン、みことばと関連したたとえです。すなわち、聖書のメッセージや説教の中にさえ、この悪霊の働きは、入り込んでくるというたとえです。
 

”出エジプト記 8:16 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
17 そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。
18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。
19 そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。”

3番目の災害は「ぶよ」です。ぶよは、何のたとえでしょうか。これを解くには、呪法師たちの「これは神の指です。」とのことばがヒントです。同じ「神の指」との表現が新約にあります。

”ルカ11:20しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。”

ですから、この「ぶよ」は悪霊を象徴しています。そして、この悪霊も杖、すなわち、終末の教師達を通して教会に浸透します。神の代わりに「人である教師」を神々の地位におくことを神は怒られています。
その偶像崇拝の結果として、杖は蛇にかわり、ぶよ、悪霊を呼び覚ますものにかわるのです。「あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」と書かれている通りです。

8:21 もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。

4番目の災害は「あぶ」です。「あぶの群れ」と書かれている部分はKJV訳では、「はえの大群」と訳されています。ですから、この箇所を理解するには、「はえ」に注目することが必要です。
新約聖書の中に「はえ」に関連することばが出てきます。

”マルコ3:22また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。”

上記の「ベルゼブル」ということばは、「はえの王」という意味です。「はえの王」が悪霊どもの頭なら、はえは悪霊を意味するということがわかります。

「エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。」と書いてあります。ですから、エジプト化した、この世についた教会の集会にも会衆にも悪霊が、満ちることがわかります。

出エジプト記 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。”

しかし、真の神の民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにすると書いてあります。終末の災害の日でも真に神につく民には、守りが万全であることを
みることができます。ですから、終末の日、この世につき、神を離れた神の民には、悪霊、みことばを聞くことのききんなど、多くの災害がふりかかりますが、真に神につく民には、完全な守りがあるのです。
 

”出エジプト記 9:3 見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。
4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」
5 また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行なう。」
6 主は翌日このことをされたので、エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。”

5番目の災害は疫病です。この箇所を理解する前に私達は、聖書でいう「病」とは何をさすものかを理解しなければなりません。聖書には、たとえば、福音書には、多くの病が出てきます。長血の女、らい病、
中風、生まれつき盲目の人、耳の聞こえない人等です。
これらの病は、私達の霊的な病を象徴しています。私達は、霊的に中風であり、歩む、信仰の歩みができなかったり、また霊的に長血の女のように、絶えず、罪をしたたり出すような者たちかもしれないのです。
また、霊の耳も聞こえず、目も見えないものかもしれません。

しかし、私達が病のある、また罪があるものだとしても、イエスが多くの病人を癒されたように、イエスの霊、聖霊は私達をいやすことができるのです。しかし、この時、聖霊を追い出した、エジプト化した、神の民には癒しが与えられず、かえってこれらにより、死、霊的な死を迎えるのです。
「欲がはらんで、罪を生み、罪が熟して死に至る」と書いてある通りです。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー