No.177 血にかわる海

テキスト:黙示録8:8、9
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

本日は「血にかわる海」という題でメッセージしたいと思います。

黙示録を読むと終末の日に海が血にかわるということが書いてあります。
これを文字通りとる人もいるかもしれませんが、聖書は「たとえの書」です。
たとえの意味あいを読みとっていきたいと思います。

さて、繰り返すようですが、聖書を読む時、大事なことは私的解釈をしない、すなわち、その箇所からのみ読み取らないことです。この黙示録も海が血に変わるとのこの箇所から読みとろうとする人々は、
過った結論に至る可能性があります。

しかし、この聖書全巻を書かれたのは神御自身なので、他の箇所も参照する人は正しい解釈に
近付きます。さて、水が血に変わることを記してある箇所が聖書にはあります。
それは、以下の出エジプト記です。
 

出エジ7:15 あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、
16 彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。
17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、
18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」
19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
20 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

この箇所を正しく読みとっていく時、上記黙示録の箇所に関して正しい結論に近付くことができます。

まず主エジプトということを考えてみましょう。
 

エジプトに関して黙示録はこのように記しています。

黙示録11:8 「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」

終末の日に、聖霊として来られた主が十字架につけられる都はソドムやエジプトと呼ばれていることがわかります。ですから、逆に旧約に記されている
エジプトは裁かれる都の型なのです。ですから、出エジプト記を終末の日に「裁かれる都」から出ていく神の民の記述として読み取るなら正しく読み取ることができるのです。

さて、このことを念頭において、この箇所を見ていきます。

”15 あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、”

パロはエジプトの王ですが、それはまた裁かれるべき神の民、エジプト化した教会の王、代表でも
あります。エジプトにはナイル川があります。それはエジプトの木、家畜、人を潤します。
それは、教会を潤す聖霊の型でもあります。

何故なら、水は「いける水が腹から出る」との表現のように聖霊のたとえだからです。

”蛇に変わったあの杖を手に取って”

杖に関してもたとえがあることを見て下さい。
聖書のたとえの一つの特色はそのたとえには、一連の流れ、関連があるということです。

たとえば、命のパンというようにパンはみことばのたとえです。するとパンをふくらませる
「パン種」はどういう意味でしょう。みことばの解釈に入ってくる、偽りの教えであることが
わかります。このようにパン、パン種、そして麦というようにそれぞれのたとえは関連しています。

杖についてはどうでしょう。杖は歩くことと関連しています。人の歩みを助けるからです。
聖書の中で、歩みは信仰の歩みのことをさすことが多いのです。ですから、杖はクリスチャンの信仰の歩みを助ける意味あいがあるのです。具体的には何をさしているのでしょう。
私はおそらく、教師、牧師等の人々をさすのではと思っています。彼等こそ、私達の
信仰の歩みを助ける人々だからです。

しかし、この時、黙示録で予言されているエジプト化した教会で恐ろしいことがおこります。「杖が蛇にかわる」のです。蛇はエデンの園で神のことばを曲げてアダム、イブをだました蛇に通じます。
またイエスに「蛇よまむしのすえよ」といわれた律法学者、パリサイ人に通じます。-彼等は神のことばを曲げ、改宗者を自分に倍まさるゲーナの子にする人々です。
エデンの園の蛇、イエスの時代の, 蛇まむしと呼ばれた人々は終末の日の型、預言です。そして、この時、終末の日に杖が蛇になることを聖書は語っているのです。終末の日、裁かれる神の民の前に、その杖、
歩みを助けるべき、教師、牧師が蛇、すなわち、エデンの園の蛇や、まむしの子といわれた律法学者の働きをします。みことばを曲げるのです。今、キリストの再臨は2回あるからなどと、聖書にないことを
いっている人々はもうすでにそのたぐいです。

”16 彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。”

この終末の日にエジプト人で代表されるこの世についた神の民と、それから分離していく真の神の民がいます。彼等はエジプトを出て真の神に仕えるべきなのです。


17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」”

杖で打つ時、水は血に変わることが書かれています。水は聖霊のたとえです。今迄、ナイルの水により、人も家畜も魚も潤され、命を与えれれてきました。しかし、今、水が血にかわることにより、魚は死ぬようになってしまいました。同じように今まで、聖霊によりいかされていたクリスチャンが悪霊のリバイバルの中で、霊的に死んでいく日が終末にはきます。いいえ、もうすでに来ています。トロント、ペンサコーラ等のリバイバルは悪霊のリバイバルであり、この中で精神、感情に異常をきたす人々もあらわれています。

”19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。”

さて、杖を延ばすとき、水が血に変わる、すなわち聖霊の働きが悪霊の働きになることがわかります。
杖が用いられるのです。今迄、祝福のもとだと思っていた神の教師、働き人、リバイバリストが何と、
悪霊を注ぐ人々に変わるのです。このことは今すでにおこっており、サタニストの働き人により、
多くの聖会は悪霊のリバイバルに満ちています。

”また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」”

噐は「神の噐」に通じます。木はぶどうの木、オリーブの木というようにクリスチャンのたとえであり、
石も砂より大きいものであり、クリスチャンのたとえです。ですから、エジプト、すなわちこの世についた教会の中には、多くの噐を通して、悪霊のリバイバルがまんえんするようになるでしょう。

”20 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。”

パロはこの世の神であり、その家臣は彼につく神の民です。彼等の水は血に変わります。ところで何故、水は血に変わるのでしょうか。コールタールや墨ではいけないのでしょうか。実は「血」ということばに隠された意味あいがあるのです。すなわち、この血は主イエスが私達の為に流された血を象徴しています。ですから、血に変わった水には、
彼等のために血を流された方を離れ、この世の神に従う人々への裁きの意味合いがあるのなのです。

さて、冒頭の黙示録のことばを見てみましょう。

”黙示録8:8、9
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。”

山は何のたとえでしょう。オリーブ、ぶどう等の木が生えるのは山です。これらの木はクリスチャンのたとえです。
クリスチャンのいるところ、すなわち、山は教会のたとえです。火の燃える山、火の燃える教会とは何のことでしょう。火や水は聖霊や霊(悪霊を含む)のたとえです。ですから、火の燃える山は悪霊のリバイバルが燃えさかる教会でしょうか。そして、結果として、海の1/3が血になります。すなわち、教会の1/3は悪霊のリバイバルの中に入っていきます。その悪霊のリバイバルの中で、「いのちのあるものの三分の一」すなわちクリスチャンの1/3の霊的いのちがうしなわれていきます。船は教会のたとえです。ヤコブ書に舵は教師であることが示されています。
舵が教師なら、それにより、操縦される大きな船はすなわち、教会をさすのです。
ですから、ここでも1/3の教会が(霊的に)破壊されることが書かれています。
ですから、終末の日、黙示録の日には、教会のいのちの水なる方、聖霊が追い出され、そのかわりに血、悪霊の働きが教会に満ちてくることが理解できるのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー