No.176 たとえの連鎖

テキスト:” 黙示録9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。”

本日はたとえの連鎖という題でメッセージしたいと思います。
聖書はたとえの書です。しかし、やみくもに何でもたとえているというのではなくその中には一定の方法があります。
伝道の書にこう書かれています。

伝道12:11知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。”

知恵ある者は、神御自身であり、そのことばは、聖書のことばとも思われます。それで、これは聖書のことを書いていると思われます。ここには、聖書は;

1 編集されている
2 一人の羊飼い(キリスト)により与えられた。

ことが書かれています。
ですから、編集されている以上、無秩序に書かれているのでなく、聖書のそれぞれの巻に一貫性があるのです。
また、一人の羊飼いにより与えられている以上、創世記から、黙示録まで一貫した流れ、意味の一貫性があるのです。

ですから、それぞれのたとえには、連鎖があるのです。何故なら、聖書は一人の方により、編集されたものだからです。

さて、上記テキストには、「石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」について書かれています。これは、何を意味するのでしょう。

この黙示録を見ただけでは、意味不明のこのことばも、聖書の一貫性、たとえの連鎖を見ていくとき、理解できます。

最初に出てくる「石」ですが、聖書の中で、石、岩、砂等はたとえが連鎖されています。
何故そういえるか?それは、この書が一人の人が意図と、意志をもって、編集されたものだからです。

これらはこのように関連しています。
砂; アブラハムの子孫。創世記22:17「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」

ですから、アブラハムの霊的子孫、クリスチャンは砂と表現されるのです。

石、岩; 石については、マタイ16:18「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と書かれています。

弟子である、ペテロ(石という意味の名前)はまた、岩とも呼ばれています。ですから、石、岩は
主の弟子や働き人、普通の信者以上に主に仕えている人々をさしていることがわかります。

木については、聖書を見ていくと、ぶどうの木、オリーブの木等は神の民をさすことがわかります。

このように、聖書の各たとえには、関連性があり、連鎖しています。知恵ある方により
作られたので、当然その中に意味の一貫性があります。

ですから、このこと、たとえには、神の定めた関連があることがわかると、上記の黙示録のことばの
「石、木の偶像」の意味あいが開けてきます。
これらは、人間の働き人、奉仕者を神のかわりに偶像の位置におくことの罪について語っているのです。
そして、その働き人は「見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」であると神はいわれています。
真の意味で聖書が警告している終末の警告を見ることも、そして、神の語る真の声を聞くこともできず、そして、みことばの実行すなわち、「歩み」がないと神は語っているのです。
ですから今、真に神なる方、聖霊として来られたキリストの声に耳を傾けていかなければなりません。
神が今、偶像崇拝(噐崇拝)する人々にもたれているねたみと怒りは、非常にはなはだしいものがあるからです。

さて、聖書の中で色々なたとえが連鎖しています。

(歩み)
たとえば、聖書の中で、「歩み」についてみます。以下のことばがあります。

”ローマ人への手紙 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

ガラテヤ人への手紙 2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
ガラテヤ人への手紙 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

エペソ人への手紙 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。”

聖書は「歩み」に関して、信者の信仰の歩みを主に語っているのです。

それでは以下の箇所は何を意味しているのでしょうか。

”マタイ 5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。”

主が起きて歩めという時、中風の人も罪許され、起きて歩みました。私達も主のことばをいただく時、
たとえ中風のように罪に沈んでいて、歩む力のない者でも許され、いやされ、信仰の歩みを始めることができるのです。主は、私達をそうすることのできるかたなのです。さて、もう一つの例をみてみます。

(あしなえ)
 

レビ21:18「だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者」

それでは、「あしなえ」とは何でしょう。決して身体の不自由な方を差別して
書いてあるわけではありません。これは、たとえです。「足なえ」とは、足がなえているものであり、それは、「信仰の歩み」のない者をたとえているのです。そのような人々は、神の奉仕に立てないのです。

(杖)

さて、歩みに関連して、「杖」という表現が聖書の中で用いられています。杖とは、歩みを助ける
という意味あいがあります。具体的には、クリスチャンの信仰の歩みを助ける、教師、牧師をさすと
思われます。以下のことばをみて下さい。

”エゼキエル書 21:13 ためされるとき、杖まで退けられたなら、いったいどうなることだろう。「「神である主の御告げ。「「”

このことばは、試練、試みの時には、単に一般の信者だけでなく、杖、教師、牧師にあたる人々迄、神の前から退けられたなら一体どうなるのかということを語っているのです。
 

”民数記 17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。”

ここは、神の前に真に認められる、教師、牧師について語っている箇所です。他の部族の杖とちがい、
レビの杖は実を結びました。ですから、神は教師、牧師の条件として、レビ(くっつくの意)、すなわち、神につく人々、そして、実を結ぶ、聖霊の実を結ぶことを条件としていることがわかります。

それでは、以下の箇所は何を語っているのでしょう。

”出エジ7:19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。”

杖を延ばすと川が血に変わるとは何をさしているのでしょう。これはこういうことでしょう。すなわち、
終末の日、教会が黙示録に記されている「ソドム、エジプトと呼ばれる町」になる時、
神の教師や働き人が悪く用いられ、彼等を通して、川、すなわち、聖霊の働きが何と、
血、すなわち同じ霊でも悪霊に変わる日について書かれているのです。

このことは、実はすでに今私達の前に起きていることです。トロント、ペンサコーラで起きているいわゆるリバイバル現象とは、実は悪霊からきたものであり、このリバイバル現象に関係した人々には、精神に変調をきたしている人々さえいるとのことです。そして、これらのリバイバルは杖となる人々を通して、教会にもたらされました。確かに「杖」により、すなわち聖霊の働きは、血、すなわち悪霊の働きに変わりました。

私達は霊をみわけなければなりません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー