No.175 山へ逃げよ

テキスト:マタイ24:15-
「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。

本日は「山へ逃げる」という題でメッセージしたいと思います。

マタイ24章で主が終末の日に主が「山へ逃げよ」といわれたことは、
私達のよく知っていることがらです。
今日はこのことばについて見ていきたいと思います。
始めに気をつけなければいけないのは、「私的解釈」すなわち、そのテキストのみから、
解釈を進めないことです。聖書全巻は一人の知恵ある方により書かれました。ですから、「山へ逃げる」ということに関して他の箇所を参照していく人は正しい結論に近付くのです。

さて、まさにこのことば「山へ逃げよ」ということばが使われている箇所が聖書にあります。
それは以下の箇所です。

創世記19:17彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

この箇所はソドム、ゴモラの町を神が滅ぼそうとした時、ロト達を連れ出した御使いが語った
ことばです。終末の時は「ノアの時、ロトの時」ともいわれているのですから、この箇所は終末について語っている箇所でもあるのです。そしてまさにこの箇所で「山に逃げなさい。」とのことばが使われているのです。

さて、この箇所、ロトの時の状況を考えてみましょう。
1 ソドム、ゴモラの町の人々は神の前に罪人であった。
2 神はこれらの町を火で滅ぼそうとする。
3 しかし、その中で義人であるロトとその家族は助けられる。
4 ロトとその家族はソドムの町に留まるのでなく、その町から出て「山へ逃げた」ために
火を免れて助かる。

同じ、「山へ逃げよ」とのことばが使われているということは、終末にも同じことがらが起きる可能性があります。

すなわち
1 終末には、クリスチャンの罪が神の前に満ちる
2 終末には、神は「火」で教会を滅ぼそうとする。
3 しかし、その全てを滅ぼすのでなく、小数の義人、すなわち、残りの者を救おうとする。
4 残りの者は町、すなわち教会に留まるので無く、山へ逃げることにより助かる。

さて、この「火」、終末の教会を滅ぼす「火」とは何でしょう。聖書の中で、火は霊のたとえとして
示されています。
以下のように書かれています。
使徒2:1-3
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

ここに記されている霊は聖霊ですが、終末には、神の民が聖霊を追い出すために、
反キリストの霊により教会は席巻されます。現在トロント、ペンサコーラ等で起きているいわゆる”リバイバル”はまさにその現れです。これらは世界中をおおうようになるでしょう。

さて、上記のテキストを順に見ていきましょう。

”「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)”

聖なるところとはどこでしょう。旧約の時代、聖なるところは、神の神殿でした。さて、今イスラエル、
エルサレムにいってもかつて旧約時代に神の神殿があった場所には神殿は何もありません。
神殿がないのですから、「聖なる所」に『荒らす憎むべき者』が立ちようがないのです。

しかし、この事実、「今神殿の建物が何も無い」という事実は、私達がこの聖書箇所を理解するのに、
他の考え方を示唆するものです。そうです、イエスはたとえで語られたのですから、「神殿」に関する
たとえを理解すべきなのです。イエスは神殿に関してこういわれました。

ヨハネ2:20、21
”そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。”

そうです、キリストのからだ、教会こそ神の神殿なのです。さて、神殿が教会であることを見ていくと、
『荒らす憎むべき者』がすでに教会の集会のまん中にたち、「悪霊」を注いだりしていることを
理解できます。リバイバルの集会で、異言に紛れて「獣の印をつけろ」などといっている人々は
まさにこのような人々ではないでしょうか。

”そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。”

ここでいわんとしていることは、ロトのように、「滅ぼされるべき町」を出て、山へ逃げろということです。ですから、教会が火のさばき、悪霊の洪水のさばき、を受ける事が暗示されているのです。
 

”屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。”

家は教会のたとえであり、家に入るなとは、滅ぼされるべき教会に入るなというたとえです。

”だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。”

この箇所を理解する鍵はヘブル5章の固い食物(たとえ)と乳ばかり飲む(たとえを理解しない)信者の記述です。身重の女も乳飲み子を持つ女もともに必要な物は
乳です。すなわち、これらの女は「たとえを理解しない信者を持つ教会」のたとえなのです。
これらの女、教会は終末の日に悲惨です。何故なら、終末に関する多くの記事はたとえを通して
語られているからです。

”にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。”

しるしと不思議は、今、ペンテコステ、カリスマの聖会であふれています。
やれ、歯が金になった、”聖霊”で倒されたという騒ぎになっています。しかし、そのしるしと
不思議を行う働き人が陰では異言でサタンを讃美したりしています。みわけが大事です。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー