No.174 敵がエルサレムの門に入る

テキスト:”哀歌4:1 ああ、金は曇り、美しい黄金は色を変え、聖なる石は、あらゆる道ばたに投げ出されている。
2 純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのようにみなされている。
3 ジャッカルさえも乳房をあらわし、その子に乳を飲ませるのに、私の民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった。
4 乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。
5 ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。
6 私の民の娘の咎は、人手によらず、たちまちくつがえされたソドムの罪より大きい。
7 そのナジル人は雪よりもきよく、乳よりも白かった。そのからだは、紅真珠より赤く、その姿はサファイヤのようであった。
8 しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり、道ばたでも見分けがつかない。彼らの皮膚は干からびて骨につき、かわいて枯れ木のようになった。
9 剣で殺される者は、餓え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。
10 私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。
11 主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。
12 地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。”

本日は「敵がエルサレムの門に入る」と題してメッセージしたいと思います。

上記テキストには、”地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。”と書かれています。

この個所を見ると、このこと、「仇や敵がエルサレムの門に入る」ことには、何か特別な意味合いがあるようです。このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

イスラエル、ユダの国の歴史を振り返って見ると、これらの国が回りの国々と多くの戦いを続けてきたことがわかります。当然、国に攻め込まれたこともあるのですが、しかし、エルサレムの門の中に敵が攻め込んで来たという記述はあまり見当たりません。ですから、このことは、この面からも何か特別なことのようです。さて、その少ない記述の一つを見てみましょう。
 

2列25:8 第五の月の七日「「それは、バビロンの王ネブカデネザル王の第十九年であった。「「バビロンの王の家来、侍従長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
9 主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。
10 侍従長といっしょにいたカルデヤの全軍勢は、エルサレムの回りの城壁を取りこわした。
11 侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した者たちと、残りの群衆を捕え移した。”

これはダビデより続いたイスラエル(ユダ)王朝の最後の記述です。この後、彼らは
自分達のゆづりの地から移され、バビロンへ補囚されるのです。これは教会時代への
予表としてとらえるなら、ゆずりの地ー天国から移されてしまう、教会時代の最後の世代、淫婦バビロンの時代を示すのです。

さて、この時代に敵がエルサレムの門に入るとはどのような意味あいがあるのでしょう。
エルサレムは教会のたとえであり、その内部に迄、敵が侵入するということを語っているのです。
キリストの教会は、それこそ、パウロの時から現在に至る迄、ありとあらゆる敵と戦ってきました。
無神論、共産主義、科学万能主義、そして、多くの異端の教えです。
これらはどれも大きな敵です。しかし、これらはしかし、あくまで教会の外の敵、
すなわちエルサレムの門の外の敵なのです。
しかし、今この終末の時、ついに「敵」は教会の門の中、エルサレムの門の中に迄侵入してきました。

「角笛」によれば、オーストラリアのクリスチャン達が撮影した"Toronnto blessing unmasked"というビデオがあります。そこには、トロントブレッシング、ペンサコーラの集会の様子が撮影されています。そして、そのビデオの中で、ベニーヒン、ロドニーハワード、ケネスクープランド等の「神の器」が異言に紛らわせて、「デーモン」「獣の印をつけろ」などと語っていることがわかります。

このような驚くべきできごとはかつて教会の中では起きなかったことです。しかし、今現に、
教会のもっとも聖であるべき「講壇」で、そのような冒涜がなされていることをみます。
まさに「敵がエルサレムの門の中に」迄入ってきたのです。冒頭の「哀歌」の預言、そしてマタイ伝の
「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つ”との預言はすでに成就しつつあるのです。
神の教会のもっとも聖なる所とはどこでしょう?他でもない、神のことばが語られる講壇ではないでしょうか?そして、そこに「彼ら」のような「荒らす者」が立つ時、これらのことばはまさに成就しつつあるのです。

そうです、終末の時代、黙示録の時代は遠い先ではなく、今目の前にあるのです。

終末における神のみこころをおこないましょう。

ー以上ー