No.172  糞を食らい、尿を飲む(2)

”2列王18:27 すると、ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」”

聖書の中で「食べる、飲む」という時、ある特定の意味があります。それは他でもない聖餐式、主の命のパン(みことば)またぶどう酒(聖霊)を受けることをさします。みことばと聖霊はクリスチャンのいのちの基でありもっとも大事なものです。

この基本がわかると以下のようなみことばにあたる時、聖書が何をいわんとしているのか理解できます。

”ヨハネの黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”

食事とは、パンを食べ、ぶどう酒を飲むことであり、戸を開け、キリストとともなるパンを食べ、聖霊のぶどう酒を受けることだとわかるのです。また、このラオデキヤの教会の中でキリストの声をきかず、戸を開けないクリスチャンはキリストを伴わないパンを受け、ぶどう酒を受けることが暗示されていることもわかるのです。

さて、聖書の中でこのようにはっきり「食べ、飲む」ということばが定まった意味を持つことがわかる時、冒頭の「糞を食らい、尿を飲む」というちょっと下品なことばの意味もわかってきます。
これは「パンを食べ、ぶどう酒を飲む」ということばと対比的な意味を持ちます。
ですから、これはいのちのパンならぬものを食べ、聖霊のぶどう酒ならぬものを飲むことをさすのです。

これはイスラエルを占領したアッシリヤの将ラブシャケのことばですが、今の時代にもアッシリヤに占領されたような教会は多く、彼らは皆等しく、「糞を食らい、尿を飲む」ようにされています。
聖書のメッセージを聞いているようですが、実はそれは「糞」にすぎないということもあるのです。

さて、一つ興味深いことがあります。ゆだや人が誇りとする「たるむーど」のことです。この「たるむーど」はゆだや人の叡智、また第二の律法と呼ばれています。

しかし、そんな風に好意的なことをいうクリスチャンはこの書を読んだことがないからであり、
この書を本当に読むなら、その冒涜的、独善的なことにびっくりするでしょう。
日本のキリスト教書店等で見るたるむーど関連本は悪い部分を省いている、いわば毒抜き後のふぐみたいなもので、これをもってこの書の良い悪いをいうのは無意味です。

以下にあまり公表されないその一部を記します。
 

◆エルビン21b 誰でもラビに従わないものは死に値し、地獄の熱い大便の中でゆでられる懲らしめを受けるだろう。
◆モードカッタン17aユだヤ人が悪を行うように誘惑されたら、彼は自分が知られていない町に行ってその悪を行わなければならない。
◆パパメジア114a−b ただユだヤ人だけが人類である(ただ汝のみ人として選ばれたり)。
◆カリソス6bの〃油注ぎ〃の副題とペラコス58aに異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある(ロパ女)。
◆サンヒドリン58bもし異邦人がユだヤ人を蹴ったら、彼は殺されなければならない。ユだヤ人を蹴ることは神を蹴ることと同じである。
◆サンヒドリン57aユダヤ人は異邦人またはクサン(クタ人)の労役に対して賃金を支払う必要はない(訳注*クタ人、列王記下一七:三ここでは異邦人のこと)。
◆パパカンマ37b イスラェル人の牛がカナン人の牛を突き殺しても債う必要はない。カナン人の牛がイスラエル人の牛を突き殺した場合は支払いは十分行われなければならない。
◆パバメジア24aもしユダヤ人が異邦人の落とし物を見つけた場合、返す必要はない(パバカンマ23bでも確認)。
◆サンヒドリン76a神はユだヤ人が彼の娘を老人に嫁がせたり、幼児の息子に妻をめとったり、異邦人の紛失物を返さなくてもとがめられない。
◆サンヒドリン57aユだヤ人が異邦人を殺しても死刑にはならない。ユダヤ人が異邦人のものを盗んでも返さなくても良い。
◆パバカンマ37b異邦人は律法の保護の外にある、そして神は彼等の金を〃イスラエルにさらされる。
◆〃パパカンマ113aユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い。
◆イエパモス98a異邦人の子供は動物である。
◆アボダーザラ136b異邦人の娘は生まれつき卑猥である。
◆サンヒドリン43aイエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので処刑されたと言われる。
◆ギソテン57aイェスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている。

旧約聖書の預言はイエスの生涯の中で300以上成就したといわれます。だから、ゆだや人なら誰でも、旧約聖書の預言と、イエスの生涯を先入観なしに読むなら、「この人こそ聖書の語っているメシヤ」だと思うはずです。

しかし、それを妨げているものがあります。他ならぬこのたるむーどであり、それを教えるラビ達です。ゆだや人が、
たるむーどから「イエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので処刑されたと言われる。」と幼い時からくり返し教えられる時、その教えは彼らをキリストのもとへ導く妨げをします。

ですから、このたるむーどは聖書を読む助け、ガイドになるのではなく、逆に人々を真理から迷わすのに用いられていることがわかります。一つ興味深いこととは、このたるむーどの中に大便、すなわち糞についての記述が異常に多いということです。

いわく、
◆ギソテン57aイェスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている。
◆エルビン21b 誰でもラビに従わないものは死に値し、地獄の熱い大便の中でゆでられる懲らしめを受けるだろう。

このことはある意味でこのたるむーどの真の姿をたるむーど自身が語っているのかもしれません。
それは、このたるむーどは「命のパン」でも彼らのいう、第二の律法でもなく、ただ「糞」にすぎず、これを読むものは「糞を食らって」いるのにすぎないことをさしていると思えます。神はそう語っているようです。

さて、旧約の神の民が神から「命のパン」、神のことばを受けながら、真理にも命にも至らなかったことを私達は見ました。彼らが神のことば、命のことば、聖書をせっかく受けながら、それよりも彼らの注解書、第二の律法を優先する時、
命にも真理にも至らなかったのです。

さて、新約の神の民について書くのが私の使命です。新約の神の民はこの愚かなゆだや人を笑うでしょうか。たるむーどにより、
神のことば、聖書、が見えなくなった、このサタンの策略にまんまと今にいたるまでだまされている旧約の神の民を彼らは笑うでしょうか。いいえ、私には彼らに笑う資格があるようには、見えません。

何故なら、新約の神の民も注解書を優先し、神のことばをないがしろにし、聖書に対して無知であるからです。

注解書にそう書いてあるからといって、聖書には根拠のないキリストの2段階にわたる再臨という怪しい教えを
受けたり、信じたりしている時、彼らも同じ惑わしの中にいるのではと私には思えます。彼らも「糞を食ら」っているのです。

「ことばは神である(あった)」とヨハネ1章に書いてあります。この神のことばを注解書により、曲げる時、
私達は真の祝福に預かることはできません。逆に「糞を食」らうものとなってしまうのです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー