No.169 3年半の大患難時代

テキスト:ダニエル9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

本日は「3年半の患難時代」という題で、メッセージします。この(大)患難時代とは、どのような時代なのか、その時、クリスチャンはどうなるのかということを見ていきたいと思うのです。

さて、始めに考えなければいけないことがあります。それは、神はこの期間を大変特別な期間であると
定めていることです。

それで、神はこの期間に関してあらゆる方法で、示唆、語りかけ、警告、ヒントを与えています。
何故、この日が大事なのでしょうか。それは、私達、今の時代に住むクリスチャンの全て定まってしまう、特別な期間だからです。

例えば、学校の入学試験は特別な日です。一年には365日もあるわけですが、しかし、この受験日は受験生にとって、お正月より、クリスマスより、特別な日なのです。何故なら、この日しだいで、自分の将来が決まってしまうからです。

それで、前もってこの日、受験の時間、場所、交通機関等を調べて、失敗のないようにするのです。
このことは神の前にも同じです。神はこの期間により、いわば今迄の教会そしてイスラエルの全ての歩みの結論が出てしまうことを御存じです。それで、聖書のあちら、こちら、とこの期間に起こることに関してヒントを与えておられます。
これらは弟子にわかるように書かれているのですが、しかし、終末に時を合わせたかのような、
敵の惑わしの働きも強いのです。

くり返しますが、神はこれらの期間がどのような期間であるのかの説明を聖書のあちら、そしてこちらで語っています。そして、そのヒントは三年半という期間です。三年半、42か月、半週、ひと時とふた時と半時、1260日とあらゆる表現がありますが、みな同じ期間をさします。これがヒントなのです。

そして、この聖書のあちらこちらに書いてある三年半の記述を一つづつ見ていく時、この教会時代最後の三年半の時に関する客観的な事実が見えてきます。
それぞれ見ていきたいと思います。

(ダニエルの70週)

テキストのダニエル書の記述からもわかるように、この3年半はダニエルに示された70週の一部です。70週の最後の半週がこの3年半なのです。
では、この70週とはどのような期間なのでしょう。70週とは原文では、”70の7”という表現になっています。さて、聖書の中にはもうひとつ”70の7”という表現があります。それは、主とペテロの会話の中にあります。

マタイ8:21、22
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍(70の7)するまでと言います。
 

この箇所が同じ表現になっているのは、決して偶然ではありません。この箇所を通して、ダニエルの70週とは何のために神により定められたのか、その意味を神が補足しているのです。この70週の期間とは、すなわち兄弟に対して忍耐して許し続ける期間なのです。ですから、原則としてこの期間の間には神による教会への報復、裁きはないのです。

だから、以下のような裁きはこの最後の3年半の間には起きません。

”ヨハネの黙示録18:10 彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』”

神が70の7倍迄許す、すなわち70週がフルに完結するまで、ゆるすという以上、この間には裁きはないのです。しかし、この期間が終了した後、すぐにバビロンの裁きに入ります。

(獣が活動する)

ヨハネの黙示録13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。”

また、この三年半の期間は、7つの頭と10の角を持つ獣が活動することを許される42ヵ月の大患難の期間でもあります。

ここを順に見ていきましょう。

”6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。”

”天に住む者たち”とは別に天に住む天使のことではありません。そうではなくて、”キリストと共に天に座せしめられた”真に神につくクリスチャンのことです。この時、彼等はこの国の権力と支配により、迫害、ののしりを受けます。今、オーム真理教の人々がその信仰のゆえに住民票を取得できなかったり、
子供を学校に入れられなかったり、国や行政や法律により圧迫を受けています。オーム真理教の人々の信仰についての是非は私はいうべき立場にいません。しかし、一ついえることは、このことには、終末の日に世界を治める獣により圧迫を受ける神の民に通じるものがあるということです。終末の真の神の民、”天に住む者たち”もカルト、異端として迫害されるものと思われます。

7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。”

地に住む者、すなわちこの世についたクリスチャンは彼を拝するようになります。このことは後に彼等に裁きをもたらします。
 

(エリヤとサレプタのやもめ女)

列王記第一17:9「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。”

エリヤの時、天が閉じ、3年半の間、雨が降りませんでした。ここにも3年半ということばが使われています。終末の大患難時代の予表です。雨は、聖霊を表します。この時代、教会が閉鎖されるわけではないでしょう。しかし、悪霊のリバイバルやしるしや不思議はあるものの、真の聖霊の働きは消えうせ、聖霊の雨のない状態が3年半も続きます。また、「かめの中に一握りの粉」と書かれているように、麦粉やパン、すなわち、神のことばをきくことのききんになります。

このやもめはツァレファテのやもめ女です。ツァレファテとは溶鉱所という意味だそうです。大患難時代の燃える炉のような患難を象徴するようなことばです。しかし、この女はその中でも預言者エリヤを養います。エリヤは終末の日に聖霊の火を呼び下す黙示録11章の預言者の型です。
その時、このやもめの「かめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならな」かったのです。
ですから、この箇所は一つのことを述べます。終末の大患難時代の中でも、真に主につくやもめは守られる、その霊的糧が与えられるということです。逆に他の神の民は獣を拝み、獣のしるしや不思議、すなわち獣のリバイバルの霊に惑わされるようになります。黙示録13章に書いてある通りです。

”黙示録13:13また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。”
 

(ダニエルの時代)

ダニエルの時代もまた、終末の大患難時代の型と思われます。黙示録に記されているできごと、7つの頭と10の角を持つ獣、バビロン等は、ダニエル書の記述と密接に関係しています。また、ダニエル書は終末に至る預言を数多く記している異色の預言書です。さて、質問です。何故、この書の中に何故、信仰を持って王の像を拝さなかった勇士達のことが記されているのでしょうか。何故でしょうか。それは、このことがダニエルの時代のみならず、終末の時代に起きてくること、終末に再現されることの型だからです。ですから、ダニエル書の中で神への忠誠を尽くす聖徒達は終末の大患難時代の中で主に忠実に従う人々の型なのです。

ダニエル3:
”1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。
2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に出席させることにした。
3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に集まり、ネブカデネザルが立てた像の前に立った。
4 伝令官は大声で叫んだ。「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。
5 あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。
6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」”

”26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。”

ダニエルの時代、バビロンの王が造った像は、終末の時代、獣が造らせる像に似ているようです。
終末の獣の数字は666ですが、このバビロンの王が建てた像も高さ60キュビト、その幅は6キュビトのように、6の数字が使われています。バビロンの人々、(彼等は全く混乱の中に入ってしまった神の民の型です)はその像を拝みますが、いと高き神のしもべである、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは拝みません。

結果として彼等は火の燃える炉の中に投げ込まれるのですが、終末の獣も火と関係しています。

”黙示録13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。”

火は聖書の中で聖霊のたとえとして出てきます。獣が聖霊を下すことはあり得ませんから、これは聖霊に似た悪霊の働きでしょう。これにより、多くのクリスチャンは惑わされます。ですから、今、明確に聖霊の声を聞く訓練をするかしないかということは、終末の日に我々の運命を決定します。
「私の羊は私の声をきく」というように、聖霊の声をききわける訓練をしている人はその日に惑わされません。

27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。”

これは、暗示的な表現です。終末の獣の霊は彼等に何の影響も及ぼさなかったということでしょうか。
このシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの話から語られることは、終末の大患難時代の火の炉の試練からも神はそのしもべを守られるということです。

”ダニエル6:4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。
5 そこでこの人たちは言った。「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。」
6 それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。
7 国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。
8 王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」”

”19 王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。
20 その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」
21 すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。
22 私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
23 そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。”

この時代、王以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという法律が制定されました。終末にも同じ様な状況が来るでしょう。そして、主につかないクリスチャンが皆、獣の名で祈るようになるでしょう。そのような時であっても、真のクリスチャンはダニエルのように、真の神、キリストに祈り続けるべきです。「神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださ」るからです。私達の神は大患難の苦難の中でもそのしもべを守られる方だからです。

終末における主のみこころをおこないましょう。

ー以上ー