No.168 怪しいデイスペンセーション主義


テキスト: ”マタイ24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。”

本日は「怪しいデイスペンセーション主義」として、この教えの偽りを見ていきたいと思います。

終末には、段階携挙説等、色々、怪しい教えが出てきますが、
そのうちの一つ、「デイスペンセーション主義」も結構怪しく、しかも多くのクリスチャンに大きな影響を与えている教えです。

この教えはどんな教えなのでしょうか。
いのちのことば社「新キリスト教辞典」より若干引用させていただき、
見ていきましょう。

=========引用始め================================

◆p534(終末論)
デイスペンセーション主義の終末論の特徴は神の計画におけるイスラエ
ルと教会との分離、区別に見られる。イスラエルは地上的、神権政治的
存在であり、教会は霊的、普遍的存在となる。この立場は旧約聖書の文
字どおりの解釈に基づくものである。キリストの宣教はこの地上のダビ
デ的メシヤ王国をイスラエルにもたらすためのものであったが、拒絶さ
れたため、その実現は延期され、教会の時代がきたるべきユダヤ的千年
王国との間にはさまれた。つまり教会の時代は神のイスラエルの計画に
対する計画の合間にあっての「大そうにゅう」であり、全くユダヤ的性
格の千年王国の実現に先立って地上より取り除かれるべきものとなる。
この千年期において、パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝によ
る異邦人世界の統治などのイスラエルに関する旧約の予言が文字どおり
成就するものとされる。ヨハネの黙示録、福音書の終末に関する記述は
全て教会に関する終末論ではなく、このイスラエルに関する神の計画と
しての終末論として解釈される。

====引用終わり=====

すなわち、この「デイスペンセーション主義」という一つの教えがいおう
としていることはこのようなことです。

*キリストの宣教はこの地上にダビデ的メシヤ王国をイスラエルにもたらすためのものであった。
個人的にはそうとも思えないが、とりあえずそういう風にこの「主義」はいっている)

*それが、拒絶されたため、その実現は延期され、教会の時代がきたるべきユダヤ的千年
王国との間にはさまれた。
これも個人的には違うと思う。むしろ、教会とその完成こそ、全聖書のゴールであり、旧約のイスラエルはその型のようにみえる。しかし、まあとりあえずこの主義はそういっているわけです。)

*つまり教会の時代は神のイスラエルの計画に対する計画の合間にあっての「大そうにゅう」であり、全くユダヤ的性格の千年王国の実現に先立って地上より取り除かれるべきものとなる。
教会の時代は「大そうにゅう」であり、一時的なものであり、本来の目的ではない、などとは、全く聖書の意図を無視した誤り)

*この千年期において、パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝によ
る異邦人世界の統治などのイスラエルに関する旧約の予言が文字どおり
成就するものとされる。
デイスペンセーション主義の考えの基本は、歴史には時代区分があるという考えです。そして、
2000年前、時代区分が行われユダヤ人から救いが異邦人、教会に移ったように、終末の時代にも時代区分が行われると説きます。そしてこの時代には、「イスラエルに関する旧約の予言が文字どおり
成就する」時代になると説くのです。)

*ヨハネの黙示録、福音書の終末に関する記述は全て教会に関する終末論ではなく、このイスラエルに関する神の計画としての終末論として解釈される。
そして、このあたりがこの「主義」の真のねらいです。すなわち、「ヨハネの黙示録、福音書の終末に関する記述は全て教会に関する終末論ではな」い、だから、終末に関して、心配する必要はない、備えはいらない、
という結論へ導かれてしまうのです。この「主義」がクリスチヤンの終末の備えを遅らせ、混乱させるため、
教会へ紹介されたことがわかります。

この主義はある意味では、説得力のある教えです。誰だって艱難には会いたくないですから、
「終末の預言は皆、ユダヤ人の上に成就するものです。クリスチャンは皆、その時には天に挙げっれているから大丈夫です。」などと聞くと、ついほいほいと信じたくなるものです。しかし、大事なことは、神のみことば
が本当にそういっているかどうかということです。みことばと明確にぶつかり、矛盾しているのに、「主義」や「教え」に基づいて「みことば」を曲げるのは、主のしもべがするべきことではありません、

事実、このデイスペンセーション主義に関しては上記本にも以下のような疑問が呈されています。
==================引用2始め========================
◆p536
尚、教会の時代は預言されていた時代であり、(詩22:22、ヘブル
2:12、イザヤ8:17、ヘブル二:三、イザヤ54:1、ガラテヤ
4:27)終りの時の様相を明らかに示している。この教会の時代はデ
イスペンセーション主義の説くような「大そうにゅう」ではないことに
なる。

===================引用2終わり=========================

教会時代は前もって聖書で預言されている。だから、この時代は、デ
イスペンセーション主義の説くような「大そうにゅう」ではないと反論しているわけです。
ですから、この主義はただ、キリスト教会にいくつかある教えや主義の一つに過ぎず、
確定的なものではないことがわかります。

しかし、問題があります。この「主義」があたかも「確定的」なもののように扱われていること、また聖書の翻訳がこの「主義」に基づいて行われている事です。
冒頭のことばがその例です。

”マタイ24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。”

マタイ24章の始めからずっとキリストの弟子達に対して語っていたのに、ここで突然、「選民」に対してキリストが語っていることになっています。

しかし、これは非常に意図的な翻訳であり、デイスペンセーション主義に基づいた翻訳なのです。
「選民」といえば、イスラエル人のことをさしていると読む人は誰でも思うわけです。そして、ここを日本語に訳した人も「終末には教会は挙げられているんだから、ここはイスラエル人んことをさすのだろう」と訳したのでしょう。しかし、これは誤りです。この選民ということばは他の箇所では以下のように訳されています。

”マタイの福音書 22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。”

”ローマ人への手紙 8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。”

これらのことばが使われている箇所ではイスラエル人の選民について語っているわけではなく、逆にクリスチャンの「選ばれた者」について語っているのです。

すなわち、テキストの箇所で主はクリスチャンの「選ばれる者」に関していっているのです。選ばれる者の一つの例はキリストの12弟子です。キリストには、多くの群集、弟子がとりまいていましたが、しかし、その中から、キリストは12弟子を「選んだ」のです。

「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」という原理が聖書の原則です。そして、その少ない「選ばれた者」さえ惑わそうと終末のにせキリスト、にせ預言者たちが働く、とこのテキストは語っているのです。すなわち、この箇所は終末の日の選ばれたクリスチャンへの警告を語っているのです。決して、遠い「イスラエル人」について語っているわけではないのです。「にせキリスト、にせ預言者たち」とのことばもこの事実を裏付けています。キリストを信じるのがクリスチャンなのですから、にせキリストは基本的にクリスチャンの「選ばれた者」を惑わすのです。イスラエル人はそもそもキリストを信じていないのですから、にせキリストに惑わされようがないわけです。

ですから、このみことばはこのように恣意的に訳語を変えることによりそれこそ、”「選ばれた者」をも惑わす”という皮肉な結果になっています。今は聖書の翻訳そのものに関しても「吟味」すべき時代だということがわかります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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