通算No.162 あらゆる部族、国語、民族、国民

テキスト:”ヨハネの黙示録 5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」”

本日は「あらゆる部族、国語、民族、国民」という題でメッセージしたいと思います。黙示録の中には、この表現が何度か使われていますが、その意味を見ていきたいと思います。

その前に一つ気をつけなければならないことがあります。それは預言の解釈の原則です。聖書の中で、預言の解釈の方法そのものについて書かれている箇所はそれ程多くありません。

私が知る限り、唯一といっていいような箇所はペテロの手紙の箇所です。いわゆる「私的解釈」と訳されている箇所です。この箇所が日本語にどう訳されているかは別にして、この箇所の原語が語っていることは、「そのテキストのみから、預言を解釈するな」すなわち、他の箇所をも参照しろということです。そして、これが私たちが預言を解釈する時に、とても大事なことなのです。

というのは、聖書はあることばや表現、例えば、弟子、キリストということばに関して一つのテキストで全ての意味を語るようには構成されていないからです。あちらに少し、こちらにもう少しというように語られ、説明されています。それらを一つ一つ組み合わせると全体像が見えてくる、そのような構造なのです。逆に一つのテキストから色々考える人は、空想と誤りの中に入っていってしまいます。

ですから、ある一つの言葉、例えば、「教会」「器」「信仰」ということばを調べる時にはそのことばが使われている多くの箇所を参照することはとても大事なのです。特に預言の解釈に関しては大事なのです。

この原則は徹底して聖書の中で使用されています。繰り返していいます。徹底して用いられているのです。

私たちがある人の書いた文章を理解しようと思うなら、著者の意図を無視してはいけません。これは童話ですとはっきり書かれているのに、「何故、川から流れてくる桃の中に男の子が入っているのだ。窒息しないのか。」などという人は書き手の意図を理解していません。書き手の意図、忠告に沿って読んでいないから、混乱するのです。

同じように預言に関しては、聖書の中に「他の箇所を参照するよう」にはっきり書かれています。この原則を徹底する人は、聖書の真の著者である神の意図に沿って、預言を理解する人です。逆にその原則を無視、もしくは徹底しないなら、神の意図に達しません。というより、ペテロの手紙に書いてあるように、「偽預言者」の道を歩むようにさえなってしまうのです。

ですから、「ある預言の箇所、節、語を理解するためには、それらが使われている他の箇所を徹底して参照する」という原則を無視してはいけません。

また、黙示録は啓示の書です。啓示ということばの意味はベイルを剥がすという意味だということです。

ベイルに隠されている限り、その下に何があるのか、誰もはっきりしたことはいえません。「ずいぶん大きなベイルだから、その下には大きいものがあると思う」「ベイルが丸くもりあがっているから、その下のものも丸いのではないか」この位のことしかわからないのです。

ある人はもっとつっこんだことをいいます。「この丸い形は、バスケットボールに違いない。ぼくは断言する。」他の人もいいます。「いや、この丸さはカボチャだ。かけてもいい。ぼくも断言する。」3人目の人もいいます。「いや、これは花瓶だ。ぼくも断言する。」そんな風に断言する人が10人もいるとします。そしてそれぞれ意見がちがうのです。

それぞれの意見が違うので、結局誰のいうことが正しいのかわかりません。しかし、その時、一つだけはっきりわかることがあります。それは、誰一人、ベイルをはがしてその下にあるものをみた人はいないということです。彼等は自分の考え、推論を述べてはいますが、しかしベイルをはがしてその下のものを見てはいないのです。

もし、彼等10人が皆、ベイルをはがしてその下のものを見たのなら、その時、議論はやむのです。「何だ。サッカーボールがあったのか」ということで、もうそれ以上議論する人は誰もいないのです。

この事は啓示の書、黙示録の解釈についてもいえます。多くの人が多くのことを黙示録の解釈について述べています。まさに、10人いれば、10通りの解釈、100人いれば100通りの解釈があるようです。誰の意見が正しいのかはわかりません。しかし一つだけはっきりしていることがあります。それは、皆が本当にベイルの下にあるものを見たなら、議論はやむはずだということです。すなわち、皆が正しく啓示を見るなら、多くの議論はありえないということです。しかし今は逆に多くの議論があり、ますます議論が増してきています。

このことは一つの事実を語ります。多くの人がベイルの下を見ていない、すなわち、啓示を受けていないということです。彼等はベイルの外から、色々自分の推論や論理や思いつきを語っているのです。しかし、それは、啓示ではありません。

啓示のよい例はダニエルのときあかしです。多くの知者がネブカデネザル王の夢を解き明そうとしましたが、できませんでした。しかし、ダニエルは正しく啓示を受け、説き明かしました。その時、議論はやんだのです。

”その時、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示された。ダニエル2:19”のです。神はこのような啓示を黙示録にも与えようとされています。それがこの書が黙示録(啓示録)といわれるゆえんです。

ですから、今の時代は啓示の時代ではなく、逆に混乱の時代なのです。そのことを神は黙示録、そして終末の預言を通して我々に語っています。

さて前おきが長くなってしまいましたが、以上の聖書の原則に基づき、テキストの「あらゆる部族、国語、民族、国民」ということばを見ていきたいと思います。

1)”ヨハネの黙示録 5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」”

この箇所で、「あらゆる部族、国語、民族、国民」ということばと共に描かれているのはどのような人々でしょう。
彼等は子羊により、購われ、王国とされ、祭司とされた人々です。彼等はクリスチャンのことです。

2)”ヨハネの黙示録 7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。”

ここで多くの人々が白い衣、しゅろの枝を持ち、現われます。彼等はどのような人々でしょう。はっきりとは書かれていません。しかし、「あらゆる部族、国語、民族、国民」とのことばは彼等に関してヒントを与えます。彼等も上記の人々と同じようにクリスチャンであり、良い麦です。

3)”ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。”

ここは黙示録11章の二人の預言者に関して書かれている箇所です。この二人の預言者とはどのような人々でしょう。ここでも”もろもろの民族、部族、国語、国民”という似た表現が使われています。このことばは彼等を理解する助けになります。

この箇所は二人の預言者という表現のために、二人の個人をさすように見えます。しかし、それがわなであり、まどわしです。淫婦バビロンは個人の女性のことではありません。また、12の星と月と共に現われる女性も個人のことをさすわけではありません。同じように、ここで現われる2人の預言者も2人の個人をさすとはいえないと思えます。むしろ、彼等は二つの燭台、2本のオリーブの木といわれています。すなわち、2種類の神の民のことなのです。そして、この”もろもろの民族、部族、国語、国民”という表現がそのヒントなのです。以下のようになります。

a)あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、多くの人々が贖なわれクリスチャンになりました。彼等は全世界のクリスチャンです。

b)あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が殉教していきます。彼等は全世界の殉教者です。

c)もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめています。この二人の預言者も殉教者であり、全世界の油注がれた人々です。

4)”ヨハネの黙示録 17:15 御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。”

同じように、この淫婦も全世界の神の民です。しかし、彼等は裁かれる神の民です。毒麦なのです。また、ここで記されている水という表現は以下と関係あります。

ヨハネの黙示録 16:3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。
5 また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。”

海や川は水に関係あります。ですから、この水の上にすわる淫婦の裁きはまた、海や川が打たれることと関係があります。

ペテロに対して主が”人間をとる漁師にしよう”といわれたように、魚は神の民、クリスチャンをさすことばです。そして、魚はどこに住むのでしょう。海や川に住むのです。ですから、淫婦の裁きは神の民への裁きであり、海や川を打つことは神の民への裁きであることがわかります。

終末における主のみこころを行いたいと思います。

ー以上ー

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