No.158  剣を奪われる


テキスト:”エペソ人への手紙 6:17また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。”

神のことばに対して聖書は「剣」であると定義しています。このことをはっきりと理解する時、
以下の黙示録のことばが理解できます。

”黙示録19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。”

の時、キリストの口からは、「鋭い剣」が出ていたことがわかります。普通人の口から出てくるものは、「ことば」ですが、実は、この時、キリストの口から出てきた物も実は、「ことば」なのです。そして、ここで表されている光景は「神のことば」を受け入れない神の民に対するさばきであることがわかるのです。

さて、このように「剣」は「神のことば」をさすたとえであることがわかる時、旧約聖書の多くの「剣」に関する記述の意味がわかってきます。これらは皆、「神のことば」に関するたとえと関連しているのです。その例をみてみましょう。

”1サムエル13:19 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。
20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。
21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。
22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。”

この個所を順に見ていきます。

”イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。”

これはサウル王の時代のことです。この時、”イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。”ことが書かれています。「鍛冶屋」は金物を修理したり、造ったりする人々です。当然、「剣」も彼らがいなければ造れません。「剣」が「神のことば」であるなら、このことは何をさすのでしょう。「神のことば」が敵の手の内に支配され、敵の許可を受けない限り、誰も「神のことば」を扱うことができない状態をさすのでしょう。

私はこれはまさに今のキリスト教会の現状をさすのではないかと思っています。
今、「神のことば」はまさに敵の手に握られており、「神学校」では、敵の許可を受けた
教理しか教えられていません。

今の神学校の中では、「たとえ」を理解しようとするクリスチャンは、「霊的解釈」であり、「聖書を文字どおり」読んでいないということで排斥されていくのです。(私がそうでした)

また、どう見ても聖書をねじ曲げないと出てこないはずの「段階携挙説」を受け入れないとそれこそ、
「異端扱い」の神学校もあります。

「ヘブル人が剣や槍を作るといけないから」とは、まさに現在をぴったりとあらわすことばのようです。
「剣を作る」こと、すなわち、正しい「神のことば」の教理を語ることは、「ヘブル人」すなわち、
神の民にはなく、敵の手にあるのです。正しく「患難後携挙説」を語ったりすれば、私のように
教会を追い出されたりします。今はそういう時代なのです。

”20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。
21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。”

イスラエル人は、「その鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下」らなければなりませんでした。敵のもとへ行かなければ、それらをとぐ人々が自分達の間にはいなかったからです。
とぐためには、敵にお願いするしかない情けない状況です。

今のキリスト教会も同じようなものです。敵にお願いし、「神のことば」から遠く離れた教理を語る神学校へ通い、そこで許可を受けないと牧師にも宣教師にもなれない情けない状況なのです。

「鋤や、くわや、斧や、かま」ということばにも秘められた意味があります。これらは「畑」を耕す時、使われるものです。神の民は「畑は世界である」といわれた主に従い、この宣教の「畑」を耕すために、
自分の身を捧げていきます。しかし、その宣教の道具である、
「鋤や、くわや、斧や、かま」は敵の手にあるのです。みことばの教えや教理は彼らの手にあるのです。そして、やっと耕した「畑」、すなわち救いに導いた人々に「キリストは2回にわたって再臨します」などというありもしない嘘を語らなければならないのです。
何故なら、「その鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために」はペリシテ人のもとに行かなければならないからです。

”22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。”

金槌やのこぎりを持たない大工は役に立ちません。同じように、「剣や槍」を持たない兵士は役に立ちません。ですから、今の時代、敵に「剣」、「神のことば」を奪いとられながら、それに対して何の疑問も抱かない神の民は神の前に役に立たないのです。2ペテロ1章の「私的解釈」ということばの正しい、意味合いを理解せず、逆に正しい解釈を述べる人々を「勝手な解釈をするなと聖書に書いてあるぞ」などと迫害するような人々は、味方の足を引っぱるばかりで、この戦いには役に立ちません。

さて、剣、神のことばを敵の手に奪われている今の時代ですが、しかし、また反面、神はこの剣を奪い帰すことをも述べています。これを見ていきましょう。

1サムエル17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」
48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。”

この個所を順に見ます。

”ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。が来て、群れの羊を取って行くと、
35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。”

ダビデは敵の手から「剣」「神のことば」を奪い帰した勇士です。そして、また彼は「獅子や、熊」すなわち、サタンから「羊」すなわち私達を奪い帰す勇士でもあるのです。

”36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」”

「割礼を受けていない」とは、「心に割礼を受けていない」神の民に通じます。彼らがこの生ける神を信じず、神のことばを蔑む時、神のさばきを受けます。

”45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。”

この時、ペリシテ人は「剣と、槍と、投げ槍を持って」ダビデに向かってきました。「神のことば」、その「解釈」「教理」は彼らの手にあるのです。逆にダビデには、「一振り」の剣さえなかったのです。彼らに逆らっては誰もこのキリスト教会でまともにやってはいけないのです。主イエスの時を思い出して下さい。聖書の解釈は律法学者、パリサイ人の手にあり、彼らに逆らったイエスは「異端者」として、排斥されたのです。

”46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。”

”頭を胴体から離し”との表現に注目して下さい。このペリシテ人は「神のことば」を曲げる神の民を表しているように思えます。彼らが頑なにその道を歩む時、「頭なる」キリストから離されたものとなるのです。

47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」”

彼らの手には「伝統的な解釈」も教理もあります。「剣も槍」もあるのです。しかし、その日、私達はこれらの教理によらない「救い」を見るでしょう。

”48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。”

この「石」は主の弟子を表すと思われます。ペテロが石や岩と呼ばれたように「石」は弟子を表すのでしょう。そして、終末の日、「神のみことば」を奪っていた敵を主はその弟子を用いて倒します。

”50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。”

「一振りの剣もなかった」とは象徴的な表現です。今すでにキリスト教会の教理は敵の手に握られています。彼らは「神は死んだ」とか「史的イエス」だとかいいたい放題です。そして、終末のその日、「一振りの剣もなかった」ということになるのでしょう。しかし、その日、主は「石投げと一つの石で」すなわち、主に忠実な弟子を通して大勝利を得られるのです。

”51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。”

このペリシテ人が自分の剣により、とどめを刺されたことは象徴的です。今、段階携挙説等の偽りの教えを奉じ、安心しきっている神の民はその日、自分の剣、教理により、最後を迎えることになるでしょう。終末が彼らの教理通りこない時、キリストが2回にわたって再臨しない時、彼らは「恥を見、捕えられる」のです。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー