No.156 離婚を憎む


テキスト:
マラキ2:”13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。
14 「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
15 神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。
16 「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。”
 

本日は”離婚を憎む”としてマラキ書から見ていきたいと思います。この章のすぐ次の章には、
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼は私の前に道を整える。」と書いてあるように、バプテスマのヨハネについて書いてあります。彼は、終末の回復の働き人の型であり、これらの記事が終末に関係があることがわかります。

さて、終末に関わる人々への警告が書かれているこのテキストの中で主が「離婚を憎む」と語っていること、また「若い時の妻」を裏切るなと語っていることがわかります。

これは何を語っているのでしょう。クリスチャンにとり、「若い時の妻を裏切らないこと」は勿論大切です。ですから、私達はこのことをまず守る必要があります。しかし、この個所には、もう
一つたとえの意味が隠されています。それを見ていきたいとおもうのです。

順に見ていきます。

”13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。”

神の民が「涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。」と主は語られます。そのため、「主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。」といわれるのです。

14 「なぜなのか。」とあなたがたは言う。

「なぜなのか。」ということばが今の私達の反応です。我々には格別罪を犯しているという感覚はないのかもしれません。

”それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻である。”

私達の若い時の妻とは誰でしょう。私達の契約の妻とは誰でしょう。このことが分からない時、
ここで語られていることばはまったく理解できません。

”15 神は人を一体に造られたのではないか。”

”神は人を一体に造られたのではないか。”との文はこの個所を理解するかぎです。
このことばは以下の個所にも出てきます。

創世記2:24”それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

”エペソ5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。”

これらの個所はキリストと教会、すなわちキリストとクリスチャンとの関係をさすものです。
結婚について考えてみましょう。結婚とは、今まで、赤の他人だった二人が契約により、ともに貞節を尽くすことを誓い、一つの家庭を造ることです。聖書的にいえば、二人ではなく、一人の人になることですが、これは実は型なのです。

この結婚という人間にとってもとても大事な契約はそのまま、私達とキリストとの契約をさす型なのです。
すなわち、かつては、神とは無縁の生活であった私達をあがない、キリストと一つの関係になったことを示す、契約の型なのです。

ですから、このマラキ書で神が「神は人を一体に造られたのではないか。」という時、当然、
このキリストと教会、クリスチャンとの関係を念頭に語っているのです。

”彼には、霊の残りがある。”

しかし、ここに我々にはあまり耳慣れない概念が語られています。それは、「妻として表される
聖霊」という概念です。これを理解しないとこの個所は正しく理解できません。

我々には、「花嫁としての教会」という概念は親しいのですが、「妻としての聖霊」とはあまり耳なれません。しかし、聖書を書かれたのは、神ご自身なので、「神が書かれたように読」みたいものです。
神学や教理で神の書かれたものまで曲げるべきではありません。

さて、今まで「若いときの妻」に書かれていましたが、この時、「彼には、霊の残りがある。」といわれました。ですから、「若いときの妻」とは、すなわち、我々の霊の残り、すなわち、我々の内なる霊とともに住まわれる「聖霊」のことだということがわかるのです。

”その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。”

「一体の人」とは創世記に記述によれば、アダムとエバが一体となったものであり、
それは、実は型なのです。それは今の時代のクリスチャンの霊と神からの聖霊が一つになった「一体の人」について語っているのです。そして、その「一体の人」の目的、すなわち、神が我々に聖霊を下された目的は「神の子孫」を形づくることなのです。

”あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。”

ここでも、「霊」と「若い時の妻」に関して並行して述べられています。この二つは実は同じこと、
すなわち「聖霊」に関して語っているということがわかるのです。

”裏切ってはならない”

人間として、もし私達が結婚するなら、その妻を裏切ってはいけません。もし、その貞節を裏切るなら、我々の家庭が破壊されたり、名誉を失ったりその報いを受けることになります。

同じように、私達は私達が始めてキリストを信じた日に私達と共に住まわれた「若いときの妻」聖霊を裏切るべきではないのです。そして、終末の日にクリスチャンの上に下る裁きはこの「裏切り」のためであることを知らなければなりません。

黙示録に以下のように書かれている人々はこの裏切る人々のことかもしれません。

”黙示録1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちりこんが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。”

また、以下の記述は聖霊が終末の日にクリスチャンから離婚され、追い出されることを語っているのかもしれません。

”2テサ2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる(「離婚される」のニュアンスがある)時まで引き止めているのです。”

しかし、私達にあっては、終末にあっても主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー