No.155  再び十字架につけられる主


テキスト:”ヨハネの黙示録 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼
を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。”

本日は「再び十字架につけられる主」と題して、終末の日に十字架につけられる主イエスに
ついて見ていきたいと思います。

ヨハネの黙示録には難解な箇所、意味のわからない箇所が多いです。テキストの箇所もそ
の一つです。
主イエスが十字架につけられたのは、今から2000年も前のことです。ですから、ここ
でいう「彼を突き刺した者たち」、具体的にはイエスの十字架刑に荷担した者達は、とっ
くに死んでいるはずです。
それなのに何故、未来であるキリストの再臨の記述の中に「彼等」について書かれてい
るのでしょうか。
謎の謎、また謎なのです。

このことを理解するために以下の2つの考えがあると思われます。
1. 2000年前のローマ兵達がもう一度蘇ってキリストの再臨に遭遇する。
2. 2000年前の主イエスの十字架刑は型であり、終末の日にキリストは再び十字架に
かけられる。

1は非常に非現実であり、もしあり得ても何の意味もないことと思えます。
2はあり得ます。何故なら、聖書にはキリストの2度にわたる十字架刑について
語っている箇所があるからです。以下の箇所です。

”ヘブル人への手紙6:4一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあず
かる者となり、
5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせ
ることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、
恥辱を与える人たちだからです。”

ここではっきり「神の子をもう一度十字架にかけ」ると書いてあります。です
から、主イエスが終末の日にもう一度十字架にかけられるという考えは決して
聖書から懸け離れた考えではないことがわかります。
この箇所では、「聖霊にあずかる者となり」「しかも堕落してしまうならば」、
その人は「自分で神の子をもう一度十字架にかけ」る人であると書かれていま
す。だから、聖霊に逆らう人が実は、「神の子をもう一度十字架にかけ」る人
なのです。

主イエスはヨハネの福音書の最後の晩さんの記事で自分を「助けぬし」、
聖霊を「もう一人の助けぬし」と呼びました。ある意味では、主イエスは
聖霊の型だということがわかります。そして、主イエスの2000年前の
十字架刑もまた、終末の日に起きてくる「2度目の十字架」の型なのです。
本番はこちらだとさえいえるでしょう。

このように見てくる時、冒頭のテキストが理解できます。

”ヨハネの黙示録1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、
ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえ
に嘆く。しかり。アーメン。”

ここでいう「彼を突き刺した者たち」とは、聖霊に逆らった者たちである
ことがわかります。また、
「地上の諸族」ということばから、彼等がこの世についた神の民であ
ることがわかります。
彼等は「天に住む者達」黙13:6 ではないのです。

彼等について同じヘブル書にはこう書かれています。

”ヘブル人への手紙 10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を
聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る
者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。”

ここでも神の御子への迫害と恵みの御霊への侮りが一緒に書かれてい
ます。ですから、主イエスへの迫害、十字架刑は後の日の御霊への侮
リ、迫害の型だということがわかるのです。

さて、この再び十字架につけられる主について黙示録にもう一箇所、
記述があります。

”ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムや
エジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主も
その都で十字架につけられたのである(つけられている、つけら
れるだろう)。”

「彼らの主もその都で十字架につけられた」と過去形で書かれれば
このできごとは、2000年前のキリストの十字架のこととしか思
えません。もちろん、そうも訳せるのですが、しかし、それのみと
はいえません。ここで「十字架につけられた」という語のギリシャ
語の時制はアオリストという時制で過去、現在、未来にも訳せる
ものです。ですから、「十字架につけられている」と現在形にも
また「十字架につけられるだろう」と未来形にも訳せるのです。
ですから、この箇所は実は、主イエスの2度目の十字架について
語っている可能性があるのです。そして、その十字架刑の場所は、
「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」すなわち、淫婦バビロン
です。終末のこの世についた教会の中で聖霊は十字架につけられ
るのです。

これらのことは聖書に預言されています。しかし、私達にあっ
ては、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー