通算No.153   めとり、とつぎ

テキスト:”ルカ17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
32 ロトの妻を思い出しなさい。
33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

本日は「めとり、とつぎ」という題で、メッセージしたいと思います。主は人の子の日、すなわち終末の日はノアの日、ロトの日と同じだといわれました。また、その時、人々はめったり、とついでいたと記されています。これらは何を意味するものでしょう。その意味を見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきたいと思います。

ノア

”26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。”

ノアに関する記述の中に終末の”人の子の日”に起きることの示唆があります。

”27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。”

ここで2つのことについて書いてあります。すなわち、”食べたり、飲んだり、”そして”めとったり、とついだり”です。それぞれについて見ていきたいと思います。

1)(食べたり、飲んだり)
この「食べる、飲む」と同じ原語が以下の箇所で使われています。

”コリント人への手紙第一 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。”

ですから、この「食べたり、飲んだり」という表現はこのことをさすと思われます。すなわち、ノアの時代にあったように、普通に「食べたり、飲んだり」すること。そして、もう一つは主の聖餐のパンとぶどう酒にあずかること。

すなわち、ここにたとえが隠されているなら、そのたとえは、聖餐にあずかるクリスチャンでもノアの時のように裁きにあずかる、そのことを述べていると思われます。

2)(めとり、とつぎ)

この表現が創世記のノアの箇所に使われています。それを見ていきましょう。
 
 

創世記10:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。”

妻とした、すなわち「、めとった」ことがわかります。ここで、神の子と人の娘たちという2つの表現があります。これらの人々はどういう種類の人々でしょう。ここだけで考えるとわからないのですが、他の箇所を参照するとわかります。新約聖書に”我らすでに神の子なり”と書かれているように、神を信じるものは神の子とされるのです。ですから、逆に人の娘たちとは、神の子でない者、神を信じていない人々であることがわかります。

”神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。”とあります。これは、今の時代に置き換えていうなら、クリスチャンとこの世の人との交わりをさします。このことは神のみこころでしょうか。以下の記述を見るとそうは思えません。

”。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。”

”わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう”という表現は、終末の時代に家の戸をたたく、神の霊、聖霊を締め出すラオデキヤのクリスチャンの姿と通じるものがあります。

そして、”それは人が肉にすぎないからだ”と書いてあります。すなわち、ここには、聖霊と人の肉とのかっとうがあるのです。そして、肉が霊を締め出すのです。

ですから、ここで「めとり、とつぎ」という表現とともに、いわれていることは、こういうことです。クリスチャンとこの世の人とが、交わり、境がなくなり、クリスチャンがこの世の者になり、その結果、聖霊をしめだすようになる、そのことをいっているのです。

"
洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。”

聖書の中で川や水は聖霊をさすことばです。
ですから、この洪水も聖霊と関係があります。終末の日、肉につくクリスチャンは聖霊ならぬ、悪霊の洪水の中で滅んでいくのです。彼等はその日、聖霊と悪霊との区別をつけることができません。彼等が神の霊に聞き従わないため、そのような
惑わしにはいるのです。ですから、ベニーヒン、ロドニーハワード等の神の講壇に立つ
「神の器」に惑わされてはいけません。彼等の霊の洪水に巻込まれてはいけないのです。彼等こそ、聖書が「荒らす憎むべき者が立ってはいけない所に立つ」と前もって、預言していた者達です。
 

ロト

”28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、”

ロトの時代にあったことは、以下の通りです。すなわち、”1)食べたり、飲んだり、2)売ったり、買ったり3)植えたり、4)建てたり”です。これを見ていきましょう。

1)(食べたり、飲んだり)
上記と同じです。

2)(売ったり、買ったり)
聖書的には「売ったり、買ったり」とはどのような意味があるのでしょう。それを見ていきたいと思います。

”買う”という同じ原語が以下の箇所で使われています。

コリント人への手紙第一 7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。”

ですから、このことばは普通に物を買うという意味とともに、神により代価を払って買われることをもさすことがわかります。

また、上記の売る、買うという両方の原語が使われている箇所があります。

”マタイの福音書 25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』”

ここでは、聖霊の油をうけることに関連して使われています。

ですから、この「売る、買う」ということばも普通のクリスチャンの歩みと関係したことばだということがわかります。

3)(植えたり)、
この原語は以下のことばと同じことばです。

”マタイの福音書 15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。”

天の父が植えた木はクリスチャンをさします。ですから、この「植える」という原語もクリスチャンの歩みと関連して普通に使われることばなのです。

4)(建てたり)

このことばは以下で使われていることばと同じ原語です。

”マタイの福音書 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”

岩の上に家を建てた賢い人はクリスチャンであり、このことは、クリスチャンが自分の信仰、教会を固い土台の上に建て上げることに関連して使われています。

”マタイの福音書 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。”

岩、すなわち弟子の歩みの土台の上に教会を建て上げることに関連してこの「建てる」ということばが使われています。すなわち、このことばもクリスチャンの歩みと関連したことばなのです。

また、上記「植える、建てる」という2つの原語が両方使われている箇所もあります。

”マルコの福音書 12:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、(植えて)垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。”

この箇所はぶどう園に関する箇所であり、これは神の民、今でいえば教会に関する箇所です。
 

29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。

ノアの時の洪水が聖霊ならぬ終末の悪霊のリバイバルをさすようにロトの時の火と硫黄も悪霊のリバイバルをさすと思われます。何故なら、ペンテコステの火といわれるように、聖霊は「火」とも表現されるからです。聖霊の働きを真似た悪霊の働きも火と表現されるのです。
だから、聖書は終末の日を「ノアの日、ロトの日」と表現することにより、我々に一つのことを語っています。それは、終末の日の裁きは悪霊のリバイバルとともにもたらされるということです。
 

結論

以上のことから、以下のことがわかります。

ノアの日、ロトの日とはどういう日をさすのでしょう。これらの日を描写するために用いられていることばには以下の2種類の意味合いがあるのです。

1 一つは文字通りの意味合いの事柄です。すなわちノアの時。ロトの時に、人々は文字どおり、「食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」していたということです。
しかし、これはノアやロトの時に限らず、アブラハムの時も、ダビデの時も同じです。その時もやはり、人々は「食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」していたでしょう。ですから、これだけでは何の意味もありません。

2 もう一つの意味があります。これらの「食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」ということばの原語は聖書の中で全てクリスチャンの通常の生活を示すために使われているのです。

ですから、これらのことばを用いることにより、聖書が語ろうとしている謎があるなら、それはこういうことです。ノア、ロトの話の第一義的な警告は未信者にあてた警告であるが、しかし隠された第2義的な警告があり、それは神の民への警告だということです。これらの話は普通のクリスチャン生活を送っていた普通のクリスチャンがある日、大洪水、また火と硫黄で滅ぼされる、すなわち惑わしのリバイバルの中で滅びる、そのことを警告して語っているのです。

これは隠された警告です。しかし、主にあってこの警告に気付かなければなりません。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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