No.149  聖餐式について


テキスト:第1コリント11:23-34

”23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。”

本日は聖餐式のたとえについて見ていきたいと思います。
聖餐式と洗礼式はキリスト教の2大式典です。これらには深い意味ととたとえが隠されているのですが、それを見ていきたいと思うのです。

教会では、2000年にわたり、聖餐式として、バンとぶどう酒を食し、かつ飲んできたのですが、そこにはどのような意味やたとえが隠されているのでしょう。それを見ていきたいと思うのです。

さて、聖餐式はバンとぶどう酒からなるのですが、まずバンについて見ていきましょう。

<バン>
バンとは何を意味するのかをさし示すことばは多いのですが、代表的なことばは以下のことばです。

”マタイの福音書 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」”

ここで聖書は「パンだけで生きるのではなく、神の...ことば」と書いています、バンと「神のことば」
が関連あることを語っているように思えます。また、マルコ書ではこう書かれています。

”マルコの福音書 4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。”

種は生えて、麦の実をむすび、それをもとにパンがつくられます。ここでもバンとみことばが関連あることを述べています。それでは以下のみことばは何をさすのでしょう。

”マタイの福音書 16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。”

パンは神のみことばであり、パン種とはそれを変質させる「パリサイ人やサドカイ人たちの教え」のことであることがわかります。

”ガラテヤ人への手紙 5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。”

「こねた粉」がパンー神のことばをさします。しかし、その中に「わずかのパン種」ー誤った教え、を入れる時、「全体を発酵させる」、すなわち誤りが教会全体に及ぶのです。

ヨハネの福音書 6:48 わたしはいのちのパンです。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。”

ここでキリスト自身が自分を「いのちのパン」だと述べています。パンは神のことばを指し、
「ことばは神であった」と書かれているように、神のことばはキリストご自身をさすのです。
ですから、神のことばを取り扱う人はどれ程慎重でなければならないでしょう。
神のことばを取り扱うとはすなわち、キリストご自身を扱うことをさすからです。

”ヨハネの福音書 6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」”

「先祖が食べて死んだ」類のパンがあります。神のことばは人を生かすものです。しかし、
パン種の入ったパン、すなわち今でいう聖書学者や解釈者の誤ったパン種の入った教えやみことばを受けても生きるとは限らないのです。いいえ、死んでしまうのです。

”ルカの福音書 22:1 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。
 22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」”

キリストは「種なしパンの祝い」の時、12弟子と一緒に最後の晩餐、すなわち最初の聖餐式をもったことがわかります。これは象徴的です。

キリストがパン、すなわち、神のみことばをとり、「これは、わたしのからだです」といった時、
その日は種なしパンと関係がある日だったのです。この事実を通して何を神はいわれているのでしょう。
これはこういうことです。確かに神のことばは命のパンであり、人に命をもたらします。
しかし、神のことばを取り扱う時に、もっとも大事なことは、「種なしパンの祝い」、すなわち、パリサイ人、サドカイ人のパン種を除くことです。今でいえば、聖書を曲げる聖書解釈、教理を除くことが大事なのです。
例えば、聖書が何度も繰り返して終末の日の備えを語っていても、誤った教理はその備えを台なしにします。キリストが2回に渡って再臨して助けてくれるから大丈夫などと、誤った教えはパンを台なしにするのです。

<ぶどう酒>

さて、それでは「ぶどう酒」は何をさすたとえなのでしょう。

”使徒の働き 2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。”

上はペンテコステの日の記述です。ここには聖霊をたとえることばがいくつも述べられています。いわく、風、炎のような舌等です。それと共に「ぶどう酒」について述べられていることがわかります。
「ぶどう酒」もまた、聖霊をさすたとえの一つであることがわかります。
 

さて、以上のことを踏まえてテキストのこととばを順に見ていきます。

”23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」”

パンは神のことば、聖書であり、それはそのまま、キリストの体です。
現在でも、たとえば、病気の人が他人から腎臓を移植するような時があります。もらった人は謹んでその臓器なりを使わせていただくわけです。さて、私達はキリストの体である、みことばをいただきました。これをどのように扱うかで、私達の歩みにおける祝福は異なって来るのです。

”25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」”

杯にはぶどう酒が入っており、それは聖霊であり、そして聖霊は別の表現では、キリストの血なのです。
手術で輸血が必要な時、血を提供してくれる人がいれば助かります。神が我々に聖霊を下さったということは、すなわち、その血を下さったことだということがわかります。

”26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。”

神のみことばはキリストの体であり、聖霊はキリストの血です。そして、この2つを教会に与えたということは、尊いキリストの死の犠牲があることがわかります。
 

”27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。”

ですから、このみこばと聖霊を我々がどのように教会で受けるかは私達にとって、大きな区分をもたらします。「ふさわしくないまま(方法で)でパンを食べ」、すなわち、ふさわしくない方法でみことばを解きあかすことはありえるのです。「進化論は正しい、創世記は神話だ」などというメッセージを神のみことばとともにするなら、それは決してふさわしくはありません。

また、聖霊の声に常に逆らい、自分の考えのみに基づいて歩むなら、「ふさわしい方法で杯を受けた」とはいえません。

”28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。”

吟味が大事です。

”29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。”

私達が教会へ行くのは飲み食いするためです。すなわち、聖霊の杯を受け、みことばのパンを食べるためです。これはすばらしい祝福です。しかし、このみことばは恐ろしいことをも告げています。
すなわち、「その飲み食いが自分をさばくことになります。」と書かれているのです。

ですから、教会での飲み、食いが仇になることがありえるのです。私達がいかに
キリストのからだ(みことば)と血(聖霊)を忠実に厳粛に取り扱わなければならないかと
いうことがわかります。

”30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。”

弱い者、病人、死んだ者は現実の病人なりをさすでしょうが、しかしたとえの意味合いもあります。
もし、私達が聖書のみことば、そして聖霊をしかるべく方法で受けないなら、すなわち、それを曲げたりするなら、教会の中に(霊的な)”病人、死んだ者”が多くなるのです。命のパンである、神のことばを受けるなら人はいきるはずです。しかし、パン種、誤った教理に基づいて神のことばを語るなら、人は生きません。むしろ、教会の中は、”弱い者、病人、死んだ者”で満ちてしまいます。ですから、このようなことが起きたなら、我々は反省しなければなりません。神の言葉は生きているはずなのに、何故私の教会には”弱い者、病人、死んだ者”が多いのかと。

”34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。”

集るとは、教会に集ることをさすのでしょう。ここでは、何と教会へ集ることが、さばきをもたらすことになりかねないと語っているのです。
ですから、みことばが繰り返し、繰り返し、語っている警告に耳を傾けましょう。教会では、主のパンとぶどう酒、すなわち、みことばと聖霊に預ります。このことは感謝です。しかし、みことばを曲げた教理を教会で繰り返し語っていたりするなら、それらは仇になり、むしろさばきをもたらすのです。
黙示録において、私達はこの裁きをみます。
 

ヨハネの黙示録 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。”

ここで、聖餐式の時と同じぶどう酒、及び杯ということばが使われています。これらは聖霊をさすものです。ですから、ここで聖餐式での警告がそのまま成就していることがわかります。
彼らは聖霊の声に耳を傾けず、逆らった人々でしょう。
 

”ヨハネの黙示録 16:19 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。”

ここでも、ぶどう酒、杯ということばが使われています。このバビロンは裁かれるべき教会であり、彼らの「一緒に集ること」が仇になっていることをみます。

終末における主の声に耳を傾けていきましょう。
 

ー以上ー

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