No.148  御霊と水と血


テキスト:”ヨハネの手紙第一 5:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。7 あかしするものが三つあります。
8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

<KJV訳>
7 天においてあかしするものが三つあります。父とことばと御霊です。そしてこれらの三つは一つです。
8 地においてあかしするものが三つあります。御霊と水と血です。そしてこれらの三つは一つです。”

本日は「みたまと水と血」という題でメッセージします。聖書の中で、み霊はどのように語られているのか、どのように定義されているのかを見ていきます。

テキストの1ヨハネ5章7節、8節は日本の新改訳では、かなりことばが抜けています。
KJV訳を見ないと意味不明です。

この7節、8節をよく見て下さい。どちらも似たような文章構成であることがわかります。ことさらのように、これらの文は似ています。そして、それには、理由があります。1方を理解することにより、他方を類推できるからです。

7節では、天であかしするものについて書いてあります。それは、父とことばと聖霊です。
そして、これらはどれもある意味で等しいことがわかります。父は父なる神であり、ことばも神です。ことばは神であったとヨハネ1章に書かれている通りです。そして、御霊も神です。
この7節はしごく当り前のことを書いてあるように見えます。
しかし、このように書かれているのには意図があります。それは、我々に8節を正しく理解するために
書かれたのです。

8節では、「地においてあかしするものが三つあります。」と書かれています。7節の「天においてあかしするものが三つあります。」とのことばと明らかに対句になっています。ですから、この2つの節を比較することが必要なことがわかります。

8節の「御霊と水と血」とのことばは「父とことばと御霊」と同じ位置に置かれています。だから、
一方を理解するために他方の理解が助けになるのです。
いわんとしていることはこういうことです。「父とことばと御霊」とはある意味で同じことをさすことを我々はみました。そして、聖書は「御霊と水と血」も、同じことをさすことを語っているのです。
このことをこの節は語っているのです。

このこと、「御霊と水と血」という異なる3つのことばが実は同じことをさすことを理解することは、聖書のたとえの理解のためには、とても大事なことです。

そして、このことを理解する時、聖書の多くのたとえが開けてきます。
 たとえば、以下の聖餐式のことばはどうでしょうか。

”コリント人への手紙第一 11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」”

主が「この杯は私の血」といわれた時、何を語ろうとしていたのでしょうか。それは、すなわち、
主が教会に与えようとされた「聖霊」は主ご自身の「血」であると語られていたのです。

また、このことがわかると以下のサマリヤの女に対して語ったことばを理解することができます。

”ヨハネの福音書 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”

主が語られた「水」とは実は聖霊のことを語られたことがわかるのです。

終末におけるみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
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