通算No.145 地上に信仰を見るか

”テキスト:ルカ18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

本日は「地上に信仰を見るか」という題でメッセージしたいと思います。

主は上記のテキストで「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」といわれました。このことばの意味を見ていきたいと思います。

終末の聖書のことばは非常に難解で、複雑、理解しがたいものです。また、理解したと思っても、間違えて取り違えてしまいやすいものです。これらのわな、間違いを逃れるためには、神からの知恵が与えられることが必要です。

さて、この「はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」ということばも理解しがたいものなのです。また、間違えて誤った結論に行ってしまいやすいことばなのです。いったいこのことばをもって何を主は語ろうとしているのでしょうか。

文字どおりとるなら、地上に信仰が見られないということです。ということは、主の再臨の時には、もう地上には信仰を持っている人々が誰も残っていないということになります。とすると、やっぱり患難前にクリスチャンが携拳されて再臨の時には誰もいないということなのでしょうか。それにしても、よくわからないのです。

さて、この節を理解するポイントはここで使われている「地上」ということばです。このことばをどう理解するかがこの箇所を適切に理解する鍵になります。

聖書の中で、「地」の反対の意味で用いられることばは「天」ということばです。ですから、この「地」及び「天」ということばが聖書的にどのように使用されているかを正しく理解することが、大きな助けになります。

さて、この天と地、両方のことばが使用されている箇所が黙示録にあります。

”ヨハネの黙示録 12:4 その尾は、の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。”

この箇所を通して聖書でいう天、地ということばを理解することができます。ここで書かれている天の星はクリスチャンをさすたとえです。何故なら、我々クリスチャンは信仰の父であるアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫は天の星、海の砂のようなものだからです。さて、天の星は地上でなく、天に存在するものです。同じように、我々クリスチャンも、体は地上にあっても、霊的には天にあるものなのです。さて、その天にある星である、クリスチャンの1/3が終末の日には地上に落とされてしまうことがわかります。

彼等はクリスチャンとしてあるべきところを離れた者であり、地につく者であり、約束の地に入らない者たちです。他の箇所で終末には背教が起きると書いてあるように、このことは確かに終末におきるのです。

ですから、地上は天から落ちた者たちがいるところなので、主の再臨の時にも当然、「地上に信仰を見る」ことはできないのです。

さて、テキストに沿って見ていきたいと思います。

1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。”

このたとえは基本的には患難時代における聖徒の忍耐について述べた箇所です。その時は祈るときであり、”失望してはならない”時なのです。

3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。”

ここにやもめがいます。エリヤの時も3年半の間、雨(聖霊を象徴する)が降らない時、やもめが守られました。ここでも患難時代に守られるやもめについて述べています。このやもめは”相手”により、攻撃されています。そして苦しんでいるのです。この相手とは誰のことでしょう。この中には明言されていませんが、それを示唆するような箇所は聖書にあります。それは以下の箇所です。

”ヨハネの黙示録 18:7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。”

ここに女王の座につく淫婦バビロンは自分は「やもめではない」と語っています。どうして、ここでわざわざ「やもめではない」と言っているのでしょう。「普通の女ではない」「こじきではない」という表現ではいけないのでしょうか。

しかし、ここではやもめではないといわれています。この表現に意味があるのです。すなわち、「やもめではない」との表現により「やもめ」とこの「女王であるバビロン」とは対象的な存在であることがわかります。

ですから、やもめを攻撃する相手とは女王バビロンであることが推察されるのです。このやもめを攻撃するということは具体的には以下のことをさすと思われます。

”ヨハネの黙示録 17:6 そして、私はこの女(バビロン)が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。”

すなわち、主につく民への終末における迫害をさすのです。彼等は油そそがれた者であるために、迫害されます。また、これは私の推測ですが、おそらくその教理が異端である、伝統的な解釈と違うということで迫害されるのでしょう。

”4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」”

ここで、聖徒があきらめないで祈ることについて述べられています。

”6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。”

こに選民の叫び求めと神のさばきとが書かれています。このさばきは終末のさばきのことであり、黙示録に記されているさばきのことです。

ですから、ここで、何故終末の時には恐ろしいさばきが起きるのか、その理由が述べられています。すなわち、黙示録のさばきはこの時代に苦しめられている神の民の祈り、叫び求めに神が答える形で行われるのです。

”しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

何故、最後にこのように書かれているのでしょうか。それは、これらの患難の中で、地上に落ちる、すなわち、獣を拝するようになったり、あるべき神の民の立場を捨てる人々が起きるからでしょう。しかし、地上に落ちた人々には信仰は見られないのです。逆に終末のさばきは(天ではなく)地上に向けてなされるのです。

以下に記されている通りです。

”ヨハネの黙示録 16:1 また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ
2 そこで、第一の御使いが出て行き、鉢をに向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。
3 第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。
4 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。”

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

 戻る -----------------------------7d73265b00d6 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream