通算NO.102 燃える山

テキスト:
1)ヘブル12:14ー29
”14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。
18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。
21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。
22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
29 私たちの神は焼き尽くす火です。”

本日は”燃える山”という題でメッセージしたいと思います。
聖書に書かれている”燃える山”は何を意味するものか見ていきたいと思うのです。

燃える山は上記のテキストに記されているモーセが律法を与えられたシナイ山です。
さて、この引用箇所は概ね以下のような構成になっています。

1 民が聖くなること、またエサウのように俗悪な者、恵から外れる者がないようにとの勧め
2 シナイ山の恐ろしい光景の記述
3 シオンの山、生ける神の都の記述
4 末の日にもう一度揺り動かしがあるとの記述

注目すべきことが一つあります。それは、シオンの山とシナイ山が対象的にしるされていることです。そして、この二つの山を対比することにより神が語られていることがあります。それを見ていきたいと思うのです。シオンの山とは何でしょう。こう書かれています。

”しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会”

このことばから、シオンの山とは、生ける神の都であり、天にあるエルサレムであり、すなわち天に登録されている長子たちの教会であることがわかります。この節の長子ということばに注目して下さい。聖書でいう長子とは、最初に生まれた者ではなく、神から長子の特権、祝福を与えられた者、すなわちヤコブのような者をさします。これは上記のエサウとは対照的なことばです。エサウは長子の権利を売った者であり、恵から外れるクリスチャンの型なのです。そして、この恐ろしいシナイ山の光景は実はエサウのような人々に対する神のさばきを書いてあるものなのです。この2つの山は以下のように対象的に記されています。

a.長子       :シオンの山
b.長子の権利を売る者:シナイ山 

シナイ山に関してはこのように記されています。

18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。”

これらのシナイ山に関する記述は決して祝福を述べたものではなく、かえって裁きを述べたものです。

さて、このヘブル書の記述は出エジプト記からの引用です。出エジプト記から、もう少しシナイ山に関する記述を見ていきたいと思います。

2)出エジプト19:10ー25
10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。
12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」
14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。
18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。
20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。
22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」
23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」
24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」
25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。

出エジプト記 20:18ー20
”18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」
20 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」”

ここに記されているのはモーセが律法を与えられたシナイ山のことです。シナイ山は、聖書的にどのような意味があるのでしょう。聖書はシナイ山は今のエルサレムをさすと述べています。

”ガラテヤ人への手紙 4:24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。”

シナイ山の記述は今のエルサレム(新エルサレムではない)についての記述です。エルサレムは教会の比喩です。そしてこの教会は奴隷ー罪の奴隷なのです。ですから、火が燃えるシナイ山の記述は罪の教会に関する裁きについて書かれているのです。

この箇所を順に見ていきましょう。

”10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。”

彼女は罪の奴隷です。ですから、”彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。”と書かれているのです。もし、私たちが聖別され、着物を洗い、義の衣を着ないなら、我々も彼女とともに滅びるからです。

11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。”

主は祝福ではなく、裁きのためにシナイ山に降りてこられます。

”12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。
13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。”

何故この山に触れてはいけないのでしょうか。この山は裁かれる教会、現在のエルサレム、また黙示録のバビロンをあらわすからです。イスラエルの民でこの”山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければな”りません。同じように、終末の時代、燃える山である、淫婦バビロンーバビロン化した教会に触れ、巻き込まれる者は皆、命を失い、死の裁きを招きます。

”14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」”

モーセは民に用意をさせました。その用意は民を聖別すること、着物を洗うこと、及び女に近づかないことでした。女に近づかないと書かれていることに注目してください。これは黙示録に記されている以下のことばを思い起こさせます。

”ヨハネの黙示録 18:4 「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。”

すなわち、このシナイ山に近づかないということは、他でもない黙示録の淫婦バビロンに近づかないことを暗示しているのです。

”16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。”

これらの雷、いなずま、角笛(ラッパ)といった表現は黙示録の中で裁きに関連して出てきます。また燃える山のさばきについても出て来ます。ですから、これらはシナイ山、すなわち今のエルサレム、教会への裁きについて語られていることがわかります。

ヨハネの黙示録 8:5、6、8
”5それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。”

この海に投げ込まれる山の記述は以下のバビロンの記述と似ています。

”ヨハネの黙示録 18:21 また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。”

ですから、この山はバビロンでもあり、裁かれる教会を象徴するものです。

”17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。”

モーセと民は降りてくる神を迎えるために山のふもとに立ちました。彼等は山に入らず、それに触れなかったのです。これが降りてくる神ーキリストの再臨を迎える正しい姿です。
 

”18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。”

”かまどの煙”とは旧約聖書の中で、裁きと関連して出てくる表現です。ソドムとゴモラが火により裁かれた時、同じ表現が使われました。

”創世記 19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。”

ですから、ここで、火の中にあって降りて来られる主は裁き主としての主です。それは、ヘブル12;29 に”私たちの神は焼き尽くす火です。”と書かれている方です。また、”全山が激しく震えた。”とは、教会全体に臨むに及ぶ大きな揺り動かしを表わします。これは患難時代の苦難、揺り動かしをさすと思われます。

”22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」”

神の前に仕える人々もその身をきよめることが大事です。”裁きは神の家から始まる”からです。

”19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」”

ここで、彼等は聞き従うことについて語っています。終末において、私たちが神の声に聞き従うかどうかは私たちの裁きと関係します。

これらの警告をとらえ、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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