本日は”宮を建てる(2)”としてハガイ2章から学んでいきたいと思います。
テキストから順に見ていきます。
”6 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。”
ここで揺り動かすことについて書いてあります。これは何をさすことばでしょうか。ヘブル書を見るとわかってきます。
”ヘブル12:26ー28
26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。”
天は星の民、すなわちアブラハムの子孫、空の星のようにといわれたクリスチャンのいるところです。そこが揺り動かされ、その結果動かされるクリスチャンと動かされないクリスチャンとに区分されるということです。神戸で大震災がありました。その時、どの建物がしっかりして、どの建物がもろいのか一目瞭然でした。理屈はともかく、倒れたものはもろい家です。地震はこの区分を行うのです。同じように終末には神の民の揺り動かしがあります。これにより神の民に区分が与えられます。これは大患難の時のことではないかと思われます。
この大患難は主に固くついていない者にとっては揺り動かされる時であり、主につく者にとってはその人が主の前に金銀となる時です。動かされない者こそ、神にとっては宝物なのです。
”9 この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。”
終末のリバイバル、再建、それに伴う栄光はペンテコステの時の栄光にまさるものです。
”11 「万軍の主はこう仰せられる。次の律法について、祭司たちに尋ねて言え。
12 もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは答えて「否。」と言った。”
ここで語られていることは終末における神の民の罪、現状です。着物のすそは着物の各部分の中でももっとも低いところです。人が歩く時、地面につきやすいところです。聖なるパンーいのちのパン、みことばであっても地につく、この世的な解釈、人間的な教えにしてしまうなら、それは神の前に聖なるものではなくなるということでしょう。”ぶどう酒や油”ー聖霊の働きでも、この世的なものを付け加えるなら、もう聖なるもの、この世と分離されたものではないと神はいわれるのです。
”13 そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」祭司たちは答えて「汚れる。」と言った。”
死体とは勿論死んだ人であり、いのちのない者です。すなわち、この世の人のことです。彼等にはキリストのいのちがないからです。ですから、”死体によって汚れた人”とは、この世と接触し、それにより汚れた人です。この世の人の方法、手段、これらも含まれると思います。これらが聖なるパンー神のことばのメッセージや、またぶどう酒や油ー聖霊の働きに混ざる時、それは神の前に汚れた物だと主はいわれるのです。
”14 ハガイはそれに応じて言った。「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。「「主の御告げ。「「彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。”
神は聖別を望んでおり、乱れ(バベルーバビロンに通じます)、混じりあっている状態を望んでおられません。これらの民と国はこの世とはっきりした聖別がないために、汚れていると神はいわれるのです。
”彼等の手で作ったすべての物”とは人の手のわざであり、人が考えだした神の働きです。”ささげる物”は神の民の奉仕や献身です。神のために捧げられているとはいうものの、”それは汚れている。”と主はいわれるのです。
ここは宮の再建について書かれた箇所です。しかし、また神の民の汚れについても書かれています。ですから、終末には2種類の神の民がいるのです。宮ー教会の再建の働きに携わる人々、そしてもう1種類は汚れの中にいる神の民です。
”15 さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、
16 あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。
17 わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。「「主の御告げ。「「
18 さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。”
神の神殿で石が積み重ねられる前と後とで、神の民の奉仕の結果はまるで違ってくるとみことばは語っています。石は神の聖徒をさします。ですから、これは、神の宮に神のみこころの聖徒が集められ聖霊の働きが回復されてくることです。
今の時代の主のみこころは、宮の再建、すなわち使徒の時代の教会の働きが再建されることであり、ここに大きなポイントがあります。我々がそのことをまず優先する時、我々の働きもそれに伴って祝されてくるのです。ですから、”主の神殿で石が積み重ねられる前は、二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。”のです。
神はこのことを再優先しており、私たちがそれを正しく捕えない時、働きに祝福がありません。多くの種、神の言をまいて、穂ー信者がやっと立ち上がってきたようでも、”立ち枯れと黒穂病と雹で打”たれて育たないといわれるのです。
しかし、主は”主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。”といわれます。”きょうから後、わたしは祝福しよう。」”と言われます。
”23 その日、「「万軍の主の御告げ。「「シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。「「主の御告げ。「「わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。「「万軍の主の御告げ。「「」”
ゼルバベルは主により選ばれて終末の教会を再建する神の器です。また、リバイバルの器です。このような器達が終末に現われるとはっきりと聖書は預言しているのです。この約束をとらえ、終末における神のみこころをなしていきたいと思います。
ー以上ー
目次へ飛ぶ mku4.html