通算No.97 宮を建てる

ハガイ1:1ー12
1 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。
2 「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」
3 ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
5 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
7 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。
9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。「「万軍の主の御告げ。「「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。
10 それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。
11 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」
12 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。”

本日は”宮を建てる”という題でメッセージしたいと思います。
テキストの箇所で、預言者ハガイはバビロンから帰還した民に向かって”主の宮を建てる”ことを語っています。これは何を意味することなのでしょう。このことについて見ていきたいと思います。

この書の背景はバビロン捕囚から戻った民がエルサレムで主の宮を建てる話です。さて、聖書を読む時、バビロンの捕囚ということがイスラエルの歴史の中で大きな位置を占めていることがわかります。何故なら、バビロン捕囚に関しては、多くの聖書の書がそれについて語っているからです。列王、歴代の書、そして、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル他多くの預言書がそのことについて語っています。また、エルサレム、宮の再建に関してはエズラ、ネヘミヤ、ハガイ、ゼカリヤ等が語っています。

たとえば、ダビデの時代、ソロモンの時代、これらの時代も同じように、意味のある時代と思われるのですが、それらの時代に関して多くの預言者が立てられ口々に語っているということはありません。
ですから、この神の民のバビロンへの捕囚は聖書の中で、何か特殊な意味のあることだということを知らなければなりません。

旧約の歴史においてバビロン捕囚は一つの大きなクライマックスです。また、新約の黙示録において淫婦バビロンのさばきはまた一つのクライマックスです。

ですから、このバビロン捕囚を通して聖書が語ろうとしていることを正しく捕えることはとても大事です。このことを正しくとらえられない時、聖書の流れを正しくとらえることに失敗してしまいます。聖書理解の大きな流れを間違って捕えてしまうことになります。
 
さて、バビロンが象徴的に語っていることは、終末におけるさばきに至る教会の姿ではないかと私は思っています。これは、女が3サトンの粉に混ぜたパン種がふくらんだ状態であり、野菜であるからし種が変質して鳥を宿らず大きな木になった姿であり、多くの毒麦が育った状態のことです。

さて、テキストに沿って見ていきたいと思います。

”1 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。”

さて、この時代、神の民は捕え移され、神の宮は崩壊していました。
このことは終末に起きる教会のバビロン化を予表した姿です。終末にも教会は多くありますが、その中の多くの人がバビロンに捕え移され、神の真の宮は崩壊しているのです。

さて、この崩壊した宮はゼルバベルにより再建されます。彼は終末において、教会に真のリバイバル、回復をもたらす終末の器の予表と思われます。黙示録には終末には2人の預言者があらわれると書いてあります。また、バプテスマのヨハネについて、”彼が来て全てのことを建てなおす”と書いてあります。これらはみな、同じことの予表であり、その働きは黙示録にある新エルサレムへとつながります。

ゼルバベルの意味は”バビロンで蒔かれた”という意味です。名前の通り、彼はバビロンから出てきたものです。彼は今は神の栄光の宮を建てる者ですが、以前はバビロンにいたものであり、そこから出てきたものです。ですから、この名前を通して一つのことがわかります。終末の神の器はもともとはバビロン化した教会におり、そこに育ちます。しかし、その中で神に示された働きをし、みこころを行ううちに、バビロン化した教会から出、主の宮を建てる働きに入っていくのです、

”「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。”

主の真の教会が再建される時はまだきていない、まだ先だと人々はいっているわけです。使徒行伝時代に経てられた神の宮、教会の姿はくずれています。聖霊のたまものはあらわされず、神の栄光は教会を通してあらわされていません。しかし、人々は、まだ教会ー宮の再建の時ではない、真のリバイバルの時ではないと言っているのです。

”4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。”

ここで2種類の教会について語られています。一つは宇宙的な教会のことであり、”宮”といわれています。この宮は使徒行伝の時代に、輝しく建てられましたが、現在ではその宮の多くの働き、真理はこわされ、曲げられています。宮はいわば廃虚となっているのです。もう一つは各町や村にある個々の教会で”家”といわれています。ここで主はこのようにいっているのです。各町や村にはそれぞれ、教会が建ち、牧師が牧会している。みなそれぞれ”板張りの家”に住んでいる。しかし、神が真に建て上げた教会、宇宙的な意味での教会は廃虚となっているというのです。

確かに現在の世界の教会は、使徒時代の教会とは大きく異なっており、使徒時代の教会の多くの働きは変質したものとなってしまいました。教会の姿は変わり、神の前に、”宮”は崩壊したような状態です。

例えば、ほんの2ー30年前まで、日本の教会では、いやしのことをいわず、聖霊のたまものや異言についてはダブーでした。使徒職、預言のたまものに至ってはそんなことがあることも知らないというような状態でした。しかし、これらこそ、神の宇宙的な真の教会の土台や壁を形づくるものです。これらを除外した教会の姿は神の目には”廃虚となっている”のです。
 
”5 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
7 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。”

しかし、真の教会が廃虚となっている時、そのことを無視して働き続ける各地の教会のの現状もやはり実のないものでした。福音の”多くの種を蒔いたが少ししか取り入れ”ることができませんでした。命のパンを”食べたが飽き足”りませんでした。また、聖霊の酒を”飲んだが酔え”なかったのです。
ですから、主は”あなたがたの現状をよく考えよ”と言われるのです。

”8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。”

木にはオリーブやぶどう、いちじくの木もあります。これらは神の民をさすことばです。これらの山から持ってきた器を通して真の神の教会は再建されるのです。そして、それを通して神の栄光はあらわされるのです。イエスの時代においては、病のある人、問題のある人がキリストのもとでいやされ、解決されました。それにより神の栄光があらわされたのです。現在はどうでしょう。病のある人、問題がある人が教会へ来るけど何の問題の解決もないということはないでしょうか。それなら、宮は崩壊しているのです。しかし、主は宮を再建し、多くの聖霊のたまものを開き、それを通して神の栄光を表わそうといわれます。

神の宮が再建され、病のある人がいやされ、問題のある人が解決され、人々が真の光を見い出すようになるといわれるのです。

”9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。”

神の民は多くの伝道会、聖会、集会を開き、あらゆる奉仕をし、多くを期待します。”この伝道会で少なくとも10人の人が救われますように。”しかしその結果は”見よ、わずかであった。”そして、そのわずかに救われた人も教会に連れ帰った時、影も形もなくなったりします。”あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。”からです。
 ”それはなぜか。”何故なのでしょう。

”それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。”

それは、みなが自分の家のため、自分の遣わされた教会、自分の属している教会のことだけを考えて”走り回っていたから”なのです。「この教会に多くの人が来ますように」「この教会に多くの献金がありますように」

しかし、神の宮ー真の教会の再建については何もしていないと主はいわれるのです。神の真の教会が本来あるべき姿に戻るように、聖霊のたまもの、すなわち、いやし、預言、知恵知識のことば、霊のみわけ等のたまものが教会で復活するようにとは求めていない。また、多くの聖書のことばが神学者、注解者により曲げられている現状に何の問題も感じていない。自分の属している教会に人がたくさんくればそれで大満足だと思っているというのです。

”10 それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。
11 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」”

その結果、聖霊は下りません。聖霊の”露を降らすことは”やめられ、神は”地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せ”られたのです。また、人は救われず、”地は産物を差し止めた”のです。

”12 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。”

彼等はこれらの神から出たことばに”聞き従った”ことが書いてあります。そして、主の宮の再建は”聞き従った”彼等を通して実現されたのです。

これらの宮の再建に関するハガイのことばは未来に関する預言であり、終末の時における神の真の宮の再建を明確に予見するものです。そして、彼は他でもない今のこの時、終末のリバイバルの時について語ったのです。彼はこのようにも言っています。

”この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。”

終末の宮の回復ー教会回復の栄光はペンテコステの時の栄光にまさるのです。

神の大きなわざが現わされようとしています。終末における主のみこころを行っていきましょう。
 

ー以上ー 

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