通算No.96 長血の女

テキスト:マルコ5:25ー34
”25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」”

本日は”長血の女”という題でメッセージします。
さて、ここで12年間、長血をわずらっていた女が主により癒されたことをみます。さて、神はこの長血の女のいやしを通して何を我々に教えようとされるのでしょうか。それを見ていきたいと思うのです。

主は福音書の中で多くの病をいやしました。盲人、耳のきこえない人、また中風の人、それぞれを癒されたのです。さて、これらのいやしにはそれぞれ意味があります。主が盲人がいやされたことには意味があり、耳のきこえない人をいやされたことにはまた別の意味があるのです。また、長血はそれらの病とは異なる病なので、それなりの意味があると思われます。すなわち、長血という病を通して主が我々に語っていることがあると思うのです。それを見ていきたいと思います。

さて、長血についてはレビ記に記載があります。

”レビ15:2ー33
2 「イスラエル人に告げて言え。だれでも、隠しどころに漏出がある場合、その漏出物は汚れている。
3 その漏出物による汚れは次のとおりである。すなわち、隠しどころが漏出物を漏らしても、あるいは隠しどころが漏出物を留めていても、その者には汚れがある。
4 漏出を病む人の寝る床は、すべて汚れる。またその者がすわる物もみな汚れる。
5 また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
6 また漏出を病む人がすわった物の上にすわる者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。
7 また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者も、自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
8 また、漏出を病む者が、きよい人につばきをかけるなら、その人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
9 また、漏出を病む者が乗った鞍はみな汚れる。
10 また、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらの物を運ぶ者も、自分の衣服を洗わなければならない。水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
11 また、漏出を病む者が、水でその手を洗わずに、だれかにさわるなら、さわられた人は自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
12 また、漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない。木の器はみな、水で洗われなければならない。
13 漏出を病む者がその漏出からきよくなるときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びる。彼はきよい。
14 八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。彼は主の前、会見の天幕の入口の所に来て、それを祭司に渡す。
15 祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。
16 人が精を漏らしたときは、その人は全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
17 精のついている衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。
18 男が女と寝て交わるなら、ふたりは共に水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。
19 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。
20 また、その女の月のさわりのときに使った寝床はすべて汚れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。
21 また、その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
22 また、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。
23 その女の床であっても、すわった物であっても、それにさわった者は夕方まで汚れる。
24 また、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、その者は七日間汚れる。彼が寝る床もすべて汚れる。
25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。
26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。
27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。
28 もし女がその漏出からきよくなったときには、七日を数える。その後にその女はきよくなる。
29 八日目には、その女は山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。
30 祭司は一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげる。祭司は、その汚れた漏出のために、主の前でその女のために贖いをする。
31 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。」
32 以上が、漏出のある者、また精を漏らして汚れた者、
33 また月のさわりで不浄の女、また男か女で漏出のある者、あるいは汚れている女と寝る男についてのおしえである。”

以上の箇所にある記述、”長い日数にわたって血の漏出がある場合..汚れる”この記述が長血の女の病に該当することがわかります。

さて、それではこのレビ記に関して少し見たいと思います。このレビ記の記述は全体として、何を語っている箇所なのでしょうか。それを見たいと思います。それを見ていく時、長血の女を通して聖書が真に語ろうとすることがわかってくると思われます。

このレビ記の箇所は一つのまとまった箇所です。しかし、この中には種々雑多な体の状態、また病が記されています。
*人の漏出物
*男性の精液の漏出
*女性の月のさわり
*女の長血

同じ章にまとめられてはいますが、ここで扱われている状態はそれぞれ大きく異なります。すなわち、対象の人が男性だったり、女性だったり異なるのです。また、医学的には、全てをひとまとめにはできません。何故なら、病に関することも含まれるし、病ではない、普通の体の人なら誰にでもある状態も含まれているからです。例えば、男性の精液、また女性の月のさわりの血が出ること、これらは健康な人には誰でもあることです。しかし、これらも含まれています。また、長血に関しては病ですが、これも同じように含まれているのです。

これらを通して聖書は何を我々に語ろうとしているのでしょうか。聖書は基本的には医学書ではなく、霊的な教えを我々に与えるものです。主はこれらを通して我々の信仰に対して霊的に何を語ろうとしているのでしょうか。

さて、これらの箇所をよく読むと一つわかることがあります。それはどの状態にも一つ共通していることがあるからです。それは、”内側から出る汚れ”ということです。人の漏出物にしても、男性の精液にしても、女性の月のさわりにしても、また女の長血にしても、みな内側から出る汚れなのです。これが共通点です。

そして、これらの内側から出る物は罪を象徴的に表わしています。
それはこれらのことからわかります。一つは漏出がある人に関して”汚れている”と表現していることです。また、もう一つはその汚れをきよめるために祭司が罪のためのいけにえをささげることが書かれていることです。

”15 祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。”

何故、漏出物のために、罪のためのあがないをするのでしょう。病があって、漏出物があることは罪なのでしょうか。漏出物があること自体が罪とは思えません。しかし、これらは罪の性格を我々に教えるための型、モデルなのです。男性の精液が出ること、また女性の月のさわりがあること、これら自体が何か深刻な罪だというわけではないのです。これらは健康な人なら誰でもあることです。しかし、これらは人の罪をはっきり理解するための型であり、方法なのです。ここで神が教えようとしている罪に関してはマルコ伝に書かれています。

”マルコ7:17ー23
17 イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
19 そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」”

ここで、主は「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。これが聖書の原則です。ですから、聖書は人の体の内側から出てくる漏出物、長血等を通して、人の心から出てくる汚れ、すなわち悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ等について語っているのです。

これが汚れであり、我々はこの汚れから解放され、いやされなければならないのです。

主の前に出ていった12年の間長血を患っていた女は、これらの内側からの汚れに悩む私たちの姿です。もう解放された、いやされたと思っても、それでもまた内側からひっきりなしに出てくる”悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲等”これらの汚れに悩まされている私たちの姿です。

”多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。”と書いてあります。

色々教会にも通ったし、良い教えにも触れた。それでもこの汚れからいやされなかったのです。
 
 ”彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。”

彼女はイエスに直接触れることを考えました。

”29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。”

彼女は他でもない主ご自身に信仰をもって触れた時、いやされたのです。主に触れる時、これらの汚れから解放されるのです。

この生きた主ご自身に触れていきたいと思います。

ー以上ー 

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