通算NO.95 主よ主よと呼ぶ者

”マタイ7:19ー24
19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”
 
本日は”主よ主よと呼ぶ者という題でメッセージしたいと思います。

この箇所はとても不思議な箇所です。というのは”主よ主よ”といいながら、なおかつ裁かれてしまう人々のことが書いてあるからです。

これは何かというと”主よ主よ”といいながら祈る我々クリスチャンにとって、他人ごととは思えません。何故彼等は裁かれてしまうのでしょう。この箇所について考えてみましょう。

テキストに沿ってみていきたいと思います。

”19良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。”

このテキストは良い実を結ぶことに関連しています。

”21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。”

キリストに向かって『主よ、主よ。』という人々はどのような人々でしょう。未信者はキリストを主とはいいません。偉人とか、偉大な人とかはいうとしても彼等にとってキリストは主ではないのです。ですから、これはクリスチャンのことをさしているのです。

”22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』”

この箇所でさらにはっきり彼等がクリスチャンであることがわかります。キリストの名によって、預言をし、悪霊を追いだし、奇蹟を行うのは主を信じていなければできないからです。しかも彼等は通常のクリスチャンではありません。預言のたまものがある人々であり、または悪霊を追い出す力を持っていた人達であり、また奇蹟を行う信仰のある人達だったのです。普通のクリスチャン以上にたまものがあり、信仰もあった人達だったのでしょう。これらのたまもののある人でさえ、裁かれるなら、まして普通のクリスチャンはさらに警戒しなければならないでしょう。
 
”23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

彼等の問題点とは何でしょう。預言が問題ではなく、悪霊を追い出すことが問題でもなく、奇蹟が問題なのではありません。彼等の問題について聖書はただ一言書いています。”不法をなす者ども”
彼等は不法をなす者たちだったのです。この不法ということばは以下の聖句でも使われています。

”ローマ人への手紙6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。”

不法ということばの意味は律法を犯すという意味です。神の律法は偶像を拝するな、人殺しをするな、盗むな、偽証するな、かん淫するなといろいろありますが、彼等はそれらの罪を犯し続けた人達ではないかと思われます。かつては聖霊のたまものを行使していたのでしょうが、しかし、その後、不法を続けたのです。以前、アメリカのテレビ伝道で用いられた器が実は陰で不法を行っていたことが判明しました。彼等のように、聖霊のたまもの、働きがありながら、しかも不法を行う人々、このような人々のことではないかと思えます。彼等も不法からたち帰るならゆるされるでしょう。しかし、そのまま悔い改めないなら、裁かれるのではないでしょうか。このような人々についてヘブル書ではこのように書いています。

”ヘブル10:25ー31
26もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
27ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。”

”真理の知識を受け”る人々はクリスチャンです。クリスチャンはキリストの血により罪を許されるものです。しかし、そのようなクリスチャンであっても”ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されてい”ないとはっきりみ言は語っています。

”24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。”

ここで行いについて書かれています。ですから、上記の”主よ主よ”という人は主のことばをきいても、行いのない人々であることがわかります。クリスチャンであるといっても行いがなければならないのです。ヤコブ書ではこのように書かれています。

”ヤコブの手紙2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。”

行いのない信仰はその人を救うことができないのです。この”主よ主よ”という人達も神への信仰はもっていました。しかし、彼等は行いが伴っていませんでした。というより彼等は不法ー罪を行っていました。その罪から神へ正しく立ち戻らなかったのです。その結果、その信仰は彼等を裁きから救うことができなかったのです。

信仰と行いに関して聖書的に正しい概念を捕えなければなりません。このことに関してエゼキエル書ではこういっています。

”エゼキエル18:21ー32
21 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。「「神である主の御告げ。「「彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
24 しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。
25 あなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
26 正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。
27 しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。
28 彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。
29 それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。「「神である主の御告げ。「「悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。「「神である主の御告げ。「「だから、悔い改めて、生きよ。”

悪者でも悔い改めて神に立ち返るなら生かされ、死ぬこと、裁きにあうことがないのです。しかしもう一つのことがあります。”しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら”彼は”犯した罪のために、死ななければならない。”のです。

これが聖書の原則なのです。そして上記の”主よ主よ”という人々はまさにこのような人々なのです。彼等はかつては聖霊のたまものを用いていたかもしれません。しかし、後には”正しい行ないから遠ざかり””不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをする”ようになったのでしょう。

彼等はクリスチャンだから裁かれないでしょうか。いいえ聖書はそうはいっていません。逆に”彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。”と書いています。

この原則は新約だから、旧約だからといって変わるわけではありません。同じ原則なのです。旧約のアブラハムが行いをともなう信仰により義とされたように新約の我々も信仰と行いにより救われるのです。しかし、このような考えは公平でないように見えるかもしれません。しかし主はいわれます。

”あなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。”

これは公平なのです。だから、我々は過去の奉仕、たまもの、行いによりかからず、最後まで忠実な歩みをするべきです。もし不法があるなら、悔い改めるべきです。このように書かれているからです。

”あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。「「神である主の御告げ。「「だから、悔い改めて、生きよ。”

たとえクリスチャンであっても神に不法、罪を犯し続けるなら裁かれる、これが聖書の原則です。たとえ”私は救われている”といってもその救いは罪を犯し続けるなら意味のないものです。エレミヤ書ではこう書かれています。

”エレミヤ7:8ー14
8 なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。
9 しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている。』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。
11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。「「主の御告げ。「「
12 それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ。
13 今、あなたがたは、これらの事をみな行なっている。「「主の御告げ。「「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった。
14 それで、あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行なおう。”

罪を犯しながら、神の神殿にくるイスラエルの人々の『私たちは救われている。』ということばは
意味のないものでした。その信仰は彼等を神の前に義とはしなかったのです。同じように現在も罪を犯し続けながら神の家に集うクリスチャンがいます。彼等が罪を悔い改めない限り、その信仰は彼等を救わないと主はいわれるのです。ですから、私たちはこのことについて決して誰にもだまされてはいけません。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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