本日は”羊と山羊”という題でメッセージしたいと思います。テキストの箇所を見て、その内容をとらえていきたいと思います。
”31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。”
この羊と山羊に分けられるという区分がなされるのはいつでしょうか。それはこのみことばから明白にわかるように、人の子ーイエスが来る時、終末の患難時代です。ですから、これは患難時代の人々を対象に書かれたものです。
”32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。”
この時、全ての人々が2種類にはっきり区別されることがわかります。世の中には色々な区分があります。例えば同じクラスでも鉄棒を基準にさか上がりのできる子供たち、またできない子供たちに区分されます。または同じプールを基準に水泳のできる子、できない子に区分されます。それと同じように全ての国々の民は一つの基準により区分されます。それは主を信じる者に対する態度です。
しかもこの区分が永遠に通じる決定的なものであることがわかります。なぜなら、一種類の人々に対して主はこういっているからです。
”34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。”
このようにこのことが決定的な、永遠の差となってくるのです。ですから、私たちはこのことをただしく、知らなければなりません。
”35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、”
これらの表現と似た箇所が黙示録にあります。
黙7:9、16、17
”9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”
この黙示録に記された人々は患難時代に殉教していく人々です。そして、これらの人々に対する態度が人を羊と山羊とに分類するのです。
また、他の箇所ではこのように書かれています。
”マタイの福音書 10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」”
この箇所でもマタイ25章と同じように、”小さい者たちのひとりに”ということばが使われているので、同じ内容について語っていると思われます。そして、ここでは、弟子ということばが使われています。
ですから、終末の人々は主の弟子にどのような態度をとるかにより羊と山羊とに区分されることがわかります。
これらの警告を正しくとらえ、終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
ー以上ー
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