通算No.91 王について

テキスト:1サムエル8章6ー19
”6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」
19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。”

本日は”王について”という題でメッセージしたいと思います。テキストは1サムエル書です。

この箇所はサムエルがサウルを王として選ぶ前の記述です。すなわち、これからイスラエルの初代の王が定められ、その後何代も王朝が続いていこうとする、まさにその前に神は王について語っておられるのです。王とは神の目の前にはどのような種類のものなのか、それを語っているのです。

ここを読む時、わかることは王を求めることは神のみこころではないということです。事実、王を求めたイスラエルの民はその歴代の王達の支配の中で、分裂し、偶像崇拝に導かれ、そして最後にはユダ王国はバビロンへ捕囚されてしまうのです。

さて、このイスラエルの王国の歴史は教会時代の予表ではないかと私は思っています。何故なら、教会時代もイスラエルの王国の歴史と同じように、バビロン捕囚をもって終わるからです。そして、もしこれが予表なら、この”王を求める”ということは、教会時代の我々にも無関係なことではないはずです。

さて、テキストに沿ってみていきたいと思います。

”彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。”

この時、神の民は王を求めました。これはイスラエルの民だけの話ではありません。教会においても人々は基本的に王を求めるのです。例えば、ローマカソリックにも王がいます。法皇という名の王がいます。法皇がよい、わるいを別にして、人の心の中には王を求めるものがあるのです。
 
”主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。”

神の民が王を求めることは神のみこころではないと主はいわれます。このことをとらえていきましょう。その理由は、”彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから”と書かれています。
人の立てた王を求めることは、目には見えないがしかし、実際にクリスチャンを真に治めておられる方を退けることになるのだと主はいわれます。

このことについて12章ではこういっています。

”1サム12:12 あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。”

すなわち、イスラエルの民にはもうすでに王はおられる。それは神ご自身であり、その方がすでにイスラエルの国を治めている。それなのに、イスラエルの民の目はそれを見ず、信仰を持たず、『いや、王が私たちを治めなければならない。』といっているというのです。

このことは罪です。見えない神を認めることをしないからです。事実、彼等自らこういっています。

”1サム12:19 民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」”

さて、その次の節を見ましょう。

 ”わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。”

ここで神は王を望む民をとがめたています。このことは妥当です。しかし、神はここで、注目すべきことばを使っています。それは、イスラエルの民が”ほかの神々に仕え”たことについて言及していることです。

王を求めることに関連してほかの神々に仕えるーすなわち偶像崇拝について言及しているのです。王を求めること、そして偶像崇拝、この二つのことは関係があるのです。

ちなみに十戒の中の偶像崇拝に関する戒めを見てみましょう。

”出エジプト記 20:3ー5 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。”

上記とまさに同じことば、すなわち”ほかの神々”ということばが.ここでも使用されていることがわかります。これは何を意味するのでしょう。すなわち、ここで神はこのことを暗示しているのです。王を求めることは他でもない偶像崇拝の罪であるということを語っているのです。

十戒はユダヤ人のためだけに書かれたものではありません。我々が今読む聖書に含まれているのですから、現在の我々にあてても書かれているものなのです。ですから、この十戒の第1戒も表面的な意味だけでなくたとえとして隠されている現代の我々への警告が含まれているのです。

自分はクリスチャンだし、仏の像もヒンズー教の像も作るはずはないのだから、この偶像崇拝に関する戒めは自分とは何の関係もないと思ってはいけません。

そのような像を彫ったり、つくったりしない人でも自分のために”王”という偶像をつくる可能性はあるのです。そのことを実は十戒は語っているのです。

”そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。”

この王の権利を見て下さい。これはもちろんイスラエルの王の権利について書いているのですが、それはまた教会を治める王の権利と重なる部分があります。

”自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ”

耕地を耕す、刈り入れをするということばは教会に人々の魂を刈り入れる働きのことをもいいます。

”あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える”

畑、ぶどう、オリーブは神の民をさすたとえに使われることばです。

”あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。”
”あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。”

十分の一を取ると書かれていることに注目して下さい。イスラエルの王の税率がどの王の時代でも必ず十分の一と決まっていたのかどうかはわかりません。日本でも4公6民とか、5公5民とか時代によって税率は変わっています。しかし、ここでははっきりと税の率が書かれ、それは1/10です。これは何をさすのでしょう。これは他でもない十分の一献金のことをも踏まえたことばと思われます。教会の献金はどの時代でも変わらず十分の一だからです。

”あなたがたは王の奴隷となる。”

私たちが私たちの上に王となられる神を捨て、人を王とする時、私たちはその人の奴隷となります。

”その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」”

自分たちが選んだ王のゆえに悩みに会うということは確かにあります。例えば法皇からマリヤ崇拝を勧められたりということです。

”それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。”

サムエルからこのように警告、忠告されてもイスラエルの民は王を求めることをやめはしませんでした。彼等は何と頑固な人々でしょう。しかし、彼等を笑うことはできません。この民達の態度、人の王を求めるという姿勢は現在に至るまで神の民の間に引き継がれているのです。彼等はその予表です。

ですから、新約聖書ではこのように主は警告しています。

”マタイ23:8ー10
8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。”

逆に人を王とすることはみこころではないことを知るべきです。このように書かれています。

”1サム12:17、18 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」
 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。”

”雷”は黙示禄の中のさばきの中で書かれています。私たちが人の王を崇拝する時、我々は裁かれることを知らなければなりません。

また、聖書は神の民の間に立てられる王についてもう一つのことを語っています。それは、王が真の王を殺したり、真の神の働きを妨害することがあるということです。

例えば、イスラエルに何代も立てられた王の中で最もキリストの姿に近い、また予表として表された王はダビデと思われます。しかし、そのダビデは、民がサムエルに願って与えられた最初の王サウルにより大きな苦しみにあいます。イスラエルのどこにも住めないように追いかけられ、命をねらわれるのです。
またサウルは主の祭司を何十人も殺してしまいました。まさに”自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫”ぶような事態になったのです。

サウルは王の典型的な性格を表すものです。彼は神により、選ばれました。また、神により油を注がれたのです。現在でいえば、聖霊の油注ぎがあるのです。しかし、結果として彼は神のみこころを破りました。ですから、私たちが人を王としないという時、その王が神の油注ぎがあるかないかという問題ではないのです。ただ、人が見えない主の代わりに王となる時、それは神のみこころではないのです。

それから、もう一つのことがあります。多くの王が立ったイスラエルの国は最終的にアッシリア、そしてユダはバビロンに捕囚され、そして滅んでしまいました。その後、バビロンから戻った人達は新しいエルサレム、宮を再建します。これらは黙示録に書かれている新エルサレム、宮の型であり、この働きは神のみこころにかなっています。

そして、それらについて記してあるエズラ、ネヘミヤ、ゼカリヤ等の記事を見る時、彼等の間に誰も王が立てられなかったことがわかります。例えば、ネヘミヤは彼の敵により、お前は王となろうとしていると非難されましたが、彼はそれを否定しています。実際、彼は王にはなりませんでした。これらのことからも神の人の王に対するみこころを見ることができます。

またキリストの時代を見て下さい。幼子キリストの命を狙ったのは神の民の王、ヘロデです。また預言者バプテスマのヨハネの首もヘロデ王により切り落とされたのです。また、12使徒の最初の殉教者ヤコブも彼の手で殺されました。

”使徒の働き 12:1、2そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。”

そして真の王であるキリストは彼の下で十字架につけられたのです。

”マタイの福音書 27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。”

これらのことは、終末への預言でもあります。人の王が真の王である主イエスを除き、十字架につけてしまうということは終末にもおきてきます。以下のように書かれています。

”ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

”十字架につける”という動詞はaoristです。
また大きな都ということばは以下のことばと同じです。

”ヨハネの黙示録 17:18 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」”

この大きな都はバビロンです。エルサレムは地理的にいっても決して大きな都ではありません。ですから、聖霊なる主はバビロンにおいて除外され、十字架につけられる、そのことを語っていると思われます。

ですから、私たちは神の民の王に関する神からの警告を正しくとらえ、イエスのみを王として、正しく主のみこころを行いたいと思います。

ー以上ー

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