通算No.90 ゲッセマネの祈り

テキスト:”マタイ26:38ー45
”38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。”

本日は”ゲッセマネの祈り”という題でメッセージしたいと思います。

テキストの箇所は主のゲッセマネの祈りの箇所です。このゲッセマネの祈りを通して主が語られていることをみていきたいと思います。

このゲッセマネの祈りの時、主ご自身はその生涯で最大といえる大きな決断を迫られていました。すなわち、父なる神のわたされる杯を受けるか、受けないかという決断です。

そして、聖書はこの時の主イエスの祈り、悲しみ、迷いについて多くの節を割き、詳しく語っています。さて人のかたちをとりこの世に来られた、主ご自身の33年の歩みの中にはこのゲッセマネの時に限らず、他にも色々と迷い、祈られたことがあると思われます。

しかし、聖書の中にはそれらの苦祷についてはほとんど記述がありません。主が30才で神からの働きにつき始めた時、また荒野で悪魔に誘惑にあった時、また12弟子を選んだ時、またエルサレムへ入城する時、それぞれの時にそれぞれ苦祷があったのではないかと想像されます。しかし、それらについては、たとえあったとしても、聖書はそれをあまり記してありません。しかし、このゲッセマネの祈りについては詳しく記してあります。ですから、このゲッセマネの祈りの記述は何か特別な記述であることがわかります。

ある人はこのように長々と自分の心の悩みを祈り、語るのはめめしいのではないかというかもしれません。しかし、聖書の記述は意味があってなされたものです。ですから、これらの記述にも意味があります。それを見ていきたいと思うのです。

さて、このゲッセマネの時について、視点をかえて考えてみます。主イエスの公生涯の期間を考える時、その期間は3年半であり、この期間は他でもない大患難時代の長さと同じです。この患難の期間について、聖書は3年半、42か月、1260日、ひと時とふた時と半時といった色々な表現をしています。しかし、どれも同じ特定の時、すなわち、終末の大患難時代をさします。ですから、主イエスのこの3年半の公生涯は、終末の3年半の時代に関する予表である可能性があります。

私たちの主はかつて、たとえを理解できない弟子を叱責されました。ですから、神のみことばに隠されたたとえを理解していくことは主のみこころです。もしこの3年半という時に関するたとえが隠されているなら、弟子はそれを読み取っていかなければならないのです。

黙11章を読むと、2人の預言者が3年半の証を終え、殉教することが書かれています。また他の聖書の箇所を見ても大患難時代には殉教があることが記されています。

ですから、もし主イエスの3年半の生涯の記述が終末の3年半の期間の型なら、このゲッセマネの園は十字架につけられる前の日の記述ですから、すなわち終末における弟子たちの殉教の前の時について予表したものととれます。

ですから、このゲッセマネの園における主の苦祷の記述は、基本的には主ご自身の迷い、苦しみをえがいたものです。しかし、それとともに、終末の患難、殉教の時代におけるその時の弟子の迷い、苦祷を描いたものなのです。そのことの予表であり、警告、教えなのです。

テキストに沿ってみていきたいと思います。

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。”

悲しみのあまり、死ぬほどに主は悩みました。同じように、殉教を前にした患難時代の弟子も人間的には決して楽しいものではないし、”悲しみのあまり死ぬほど”かもしれません。

”ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」”

その時に至る弟子への主の命令は”ここを離れない”ことです。こことは主のおられるところです。そして、”目をさま”していることです。

”それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」”

患難時代の弟子もこのように祈るべきです。ある弟子はその時に殉教するでしょうし、また他の弟子は終りまで生き残り、携挙されるかもしれません。それぞれの弟子に対する、神のみこころは違うのです。しかし、我々が祈るべきは、”わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。”との祈りです。

” それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。”

ここで、主の心とはうらはらに眠っている弟子の姿が見えます。この時は主にとってはその生涯における最大の戦いの時であり、苦祷の時でした。しかし、肝心の弟子は眠りこけているのです。このことは終末にも起きます。というより終末に起きることの予表なのです。

患難時代において、主の弟子たちが殉教する時というのは、長い間この世と戦い続けてきた教会にとり、最後の大きな戦いの時です。しかし、まさにその時、多くの主の弟子達は眠りこけているであろうことを予表してるのです。

”誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」”

ここで使われている誘惑ということばは以下の試練ということばと同じ原語です。

ヨハネの黙示録 3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

ですから、ここでいわれていることは患難時代の試練に巻き込まれることのないように、淫婦のさばきに巻きこまれることのないように目をさまして祈っているようにといっているのです。逆に目をさますことのできない弟子、信者は淫婦のさばきの中に入ってしまうことが暗示されます。

さて、この時は暗い夜であり、弟子達は眠気のため、イエスとともに祈り続けることができなかったのです。 夜とは、また眠るとはいったい何をさすことばでしょう。それを見てみましょう。以下の聖句を見て下さい。

”コリント人への手紙第二 6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。”

”エペソ人への手紙 5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。”

”エペソ人への手紙 5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。”

”テサロニケ人への手紙第一 5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。”

”テサロニケ人への手紙第一 5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。”

上記のいくつかの聖句から明らかなように、夜、暗闇とはこの世、罪を意味します。眠るとは罪、この世に巻き込まれていくことをさします。そして、現在はますます夜の闇が濃くなっていく時代です。

ですから、夜の闇の中で、眠りこけていき、主とともに祈りを続けていくことのできなかった弟子達は終末の時代にこの世や罪に巻き込まれ、その結果、必要な祈りがおろそかになっていく弟子を予表的に表わしているのです。殉教の前には多くの弟子はこのような、状態になっていきます。

個人としてのペテロやヨハネに罪があるというわけではありません。しかし、夜の闇で眠りこける彼等はこの世や罪に巻き込まれていく終末の弟子の予表なのです。

イエスは、またも彼らを置いて行かれ”

ペテロやヨハネは従う気持ちはあったものの、夜の闇の中で眠気に勝てませんでした。その結果、イエスは”彼等を置いて行かれ”、彼等は主についていくことはできませんでした。彼等は主に従うつもりでゲッセマネまで来たのです。しかし、イエスにおいていかれました。すなわち、最後まで従うことはできなかったのです。終末にも途中まではきても、肝心な時に主についていけない弟子達が現われます。彼等がついていけない理由は眠るからです。これはそのことの警告です。

”見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。”

”見なさい。時が来ました。”と主はいわれました。同じように患難時代にもその”時”があります。
我らの信仰の導き手であり、その完成者である主はこの時、”罪人たちの手に渡され”ました。同じように終末の弟子にも殉教の時がくるでしょう。

”もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。”

主は3度祈りをされ、弟子は3度とも眠っていたことに注目して下さい。この後、ペテロは3度主を否定しました。聖書は同じ3度ということばを使うことによりこれらのことが関係していることを暗示しています

確かにこれらのことは関係があります。終末の時、主を否定する弟子は誰でしょうか。それは夜の闇の中で眠ってしまう、すなわちこの世や罪に巻き込まれてしまう、また祈りを落としてしまうその弟子であると聖書は語っているのです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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