通算No.89 くじをひくこと

テキスト:”ヨハネの福音書 19:23、24 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。”

本日は”くじをひくこと”という題でメッセージします。

主が十字架につけられる時、その下着はくじを引かれました。そしてそのくじを引くということは前もって旧約聖書で預言されていた意味のあることでした。

”詩篇 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。”
 
これらのことに関する意味をとらえていきたいと思います。

主が十字架につけられる時、その下着がくじにかけられたことは、終末におけるイエスにつける民の運命を語る予表です。何故なら、このように書かれているからです。

”オパデヤ11、12 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなた(エドム)もまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。
あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。”

ここでは”エルサレムをくじ引きにする”と書いてあります。ここでもくじということばが使われています。それは、主につく民が終末に受ける苦難とともに語られています。くじとはどのような意味なのでしょう。

聖書をよく読むとイスラエルの暦にくじという名前のついた祭りを見い出します。それは、すなわち”プリムの祭”です。以下のように書かれています。

”エステル記 9:24ー27 なぜなら、アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、
 そのことが、王の耳にはいると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。
 こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。”
 
  それでこのくじを引くということばの隠れた意味がわかってきます。すなわち、モルデカイの民ー真にキリストにつく人々を”滅ぼす日”を定めることです。

テキストでは下着のため、くじを引くと書いてあります。下着とは何を意味するのでしょう。考えてみましょう。人のつける着物はその人の所有であり、その人について行きます。その人が山へいけば着物も山へついていきます。そういう意味で、キリストの着物はキリストにつく人々をさすと思われます。しかし、上着と下着とには区別があります。下着はキリストに直接接触しており、近い位置にいます。上着はそうでもありません。それで下着は主の近くで従う民をさすと言えるでしょう。

この下着の人達の運命は上着で象徴される人達の運命とは異なり、終末に敵により滅ぼされることが決定されます。このことがオパデヤ書に書かれていることです。上述のオバデヤ書のことばを見てみます。

エルサレムをくじ引きにして取った日”

これは真に主につく人々を滅ぼそうと定めた日のことです。すなわち、キリストの下着ー真の神の民をくじ引きにした日です。

”あなた(エドム)もまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。”

キリストにある兄弟でありながら、そのことに無関心をよそおう人々が現われるのでしょう。

”あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。”

この時エドムの立場のクリスチャン達は彼等の滅びを喜びます。

このように主は”くじ”ということばで終末における真に主につく人々の運命を暗示しています。しかし、”くじ”すなわち、プル、プリムということばを使うことにより、もう一つのことをも語っています。

それは、エステル書に以下のように書かれていることです。

”なぜなら、アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人を迫害する者ハマンが、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんで、プル、すなわちくじを投げ、彼らをかき乱し、滅ぼそうとしたが、
 そのことが、王の耳にはいると、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。”

すなわち、彼等が”たくらんだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたからである。”と書いてあるからです。終末には神の逆転があることを前もってみことばは語っています。
このことは必ず起きます。黙11章には、2人の預言者が殉教した後、地の人々が贈り物を贈り合うと書いてあります。

”ヨハネの黙示録 11:10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。”

これは、プリムの祭に関して出てくる以下の表現と似ています。

エステル記 9:22 自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。”

しかし、この二人の預言者は蘇ります。彼等の敵はそれを見るのです。
ですから、患難時代における主につく民がたとえ、殉教するとしてもしないとしても、必ず主にある逆転があります。そのことを主はこの”くじ”ということばを通して語っているのです。

ますます終末における主のみこころを行っていきたいと思います。
 

ー以上ー

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