通算No.87 やもめと宮の崩壊

テキスト: 1)ルカ21:1ー6
”1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
5 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
6 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」”

本日は”やもめと宮の崩壊”という題でメッセージします。

このテキストは終末について語られている箇所です。終末とは宮が崩れる時であると主は語っているわけです。

さて、それとともにもう一つのことを語っています。やもめについて語っているのです。このやもめのことはこの宮の崩壊のことばの直前に書かれています。ですから、この二つの話は関係がある可能性があります。

この二つの話は他の福音書でも出てきます。そして、その時もやはり二つの話が同じような位置に書かれているのです。ですから、確かに神は確かにこの二つの話を対照的に語っています。

この情景をよく思い描いてみましょう。主は宮へやってきました。それはヘロデ王が建てたもので、壮麗な建物です。それに関して、イエスはこの宮がくずれる、いわば宮のさばきについて語ったのです。そして、もう一つのことを語りました。それはその宮の献金箱に献金を捧げるやもめのことです。このやもめについては主は賞賛したのです。ここに主が宮の中でさばきと賞賛という対照的な二つのことを語られたことがわかります。

さて、聖書の中では多くのたとえが使われています。終末に関しても多くのたとえが使われています。

この箇所に関するたとえを見ていきたいと思います。
まず、宮に関しては、教会をさすと思われます。何故なら、聖書が宮は”キリストのからだをさす”といっているからです。建設するのに46年かかった神殿に関して主がもしこの神殿をこわすなら3日で建てるといったと非難する人々の箇所です。ですから、神殿は、キリストのからだーすなわちみからだなる教会をさすことがわかります。

さてそれではやもめとは何をさすのでしょう。以下のように書いてあります。

”テモテへの手紙第一 5:5 ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、”

”望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげている”人は本当のやもめだと書いてあります。ですから、終末においても神に頼り、絶えず祈るクリスチャンは男でも女でも、若くても、年寄りでも本当の意味のやもめなのです。

このように見ていくと、主が宮で真に語ろうとしていたことがわかってきます。一つは神の宮ー教会の終末における崩壊、さばきです。この宮は壮麗で、すばらしい石や奉納物で飾ってありました。同じように教会はすばらしい石ー器で満ち、また多くのささげられた人々で飾られています。しかし、この宮はくずれる、すなわち崩壊すると主はいわれるのです。

それとともにこのやもめにより代表される”どの人よりもたくさん投げ入れ”たやもめ、”望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげてい”るクリスチャンはほめているのです。

黙示録で神に裁かれる淫婦バビロンはやもめに関して興味深いことをいっています。

”ヨハネの黙示録 18:7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。”

彼女は終末においてやもめの立場をとらないクリスチャンです。そして、このバビロンには崩壊する宮と相通じるものがあります。

ですから、終末の時代には2種類のクリスチャンがいることがわかります。一つはやもめの立場をとるクリスチャン、彼等は新エルサレムへ至ります。そして、バビロン、宮と表現される裁かれるクリスチャンです。

このわずかなものを全てささげるやもめは終末のフイラデルフイアの教会に通じるものがあるのではないかと私は思います。彼等は少ししか力がないのに主の名を否まなかったからです。彼等は”試練の時”から守られます。また、全てをささげるやもめは”一切を捨てて主に従った”主の弟子と通じるものがあるのです。

逆にこの金持ちたちに通じるような教会も黙示録にあります。”富んでいる、豊かになった”と自分でいいながら、実際は裸である教会ーラオデキヤがそれです。

やもめに関してもう少し他の箇所をみてみましょう。

2)”ルカの福音書 4:25、26 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。”

”三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききん”がおこるとはすなわち、終末の大患難時代の予表です。エリヤは黙示禄11章の終末の預言者の型です。彼を通して終末に大きな回復、リバイバルがおきます。多くの人が救われますが、しかし、患難の中でまた多くの人が去っていきます。しかし、エリヤがシドンのサレプタのやもめの助けになったように、患難時代には終末の預言者は真のやもめを助けます。サレプタとは”炉で精練する”という意味です。炉の火のような試練の中でも主は真のやもめを助けます。

バビロンの時代、像を拝まないため、炉に投げ込まれようとしたシャデラク、メシャク、アベデネゴの時のように、終末の患難時代の中で真のやもめは火の試練の中で守られるのです。

3)ルカ18:1ー8
”1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

ここでもやもめが出てきます。”人の子が来たとき”と書いてあるので、これは終末について語られていることがわかります。順にみていきましょう。

 ”いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。”

このたとえ話は基本的に祈りにおいて、失望しないことを語ったものです。そういう意味では一般的などのようなケースにもあてはまるたとえです。しかし、それとともにこのたとえはある特定のことについて語っています。それは終末の患難時代における”やもめ”であるクリスチャンの祈りの姿勢に関してです。患難時代のクリスチャンはどのような問題の中でも祈っていくこと、決して望みを捨ててしまわないことについて書いてあるのです。

”その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。”

このやもめは相手がさばかれること、自分がまもられることを求めていました。これは患難時代にはやもめー真に主につくクリスチャンには患難があることを暗示しています。

彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

患難時代には真に神につくクリスチャンには殉教や迫害があります。そして、これらのことが起きてもすぐに神が裁いたり、対処するわけではないようです。”彼は、しばらくは取り合わないでいた”とあるからです。

”まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。”

夜昼神を予備求めている選民ーこれが実はやもめなのです。以下のことばと対応します。

”テモテへの手紙第一 5:5 ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神願いと祈りをささげていますが、”

また、初降臨の主イエスにあったやもめの女預言者アンナにも通じるものがあります。

”ルカの福音書 2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。”

そして神はそのやもめの態度を持ち続けるクリスチャンのためにさばきをなさいます。これは患難時代の終りに行われるこの世、そして迫害する者への裁きについて述べているのです。
 
このやもめを迫害、苦しめる者はだれでしょうか。それをみてみましょう。この箇所だけでははっきりわかりません。
しかし、宮の献金箱に献金をささげるやもめの話の中にこのことのヒントがあります。聖書に書かれたそれぞれのやもめの話は独立した話のようですが、しかしそれぞれ関係しています。何故なら、全聖書の真の著者は神であり、聖書は神がその知恵をもって書かれたものだからです。神はそれぞれのやもめの話を通して、それぞれ必要なことを語られているのです。

このやもめの話にやもめがささげた2レプタのお金が出てきます。これは1コドラントに相当します。
さて、聖書には他にも1コドラントが出てくる例話があります。これは、兄弟間の争いに関する話です。もし仲直りしないなら、兄弟に訴えられ、ろうやに入れられ、最後の1コドラントを支払うまで、そこから出ることはできないと書いてあります。

ですから、2レプタ、すなわち、1コドラントは兄弟間の争いと関係があることがわかります。

また、聖書の他の箇所には終末にはエドムがその兄弟を憎むことについて書いてあります。エドムとはヤコブと違い長子の権利を売るクリスチャンのことをさします。

これらのことから、このやもめを苦しめ、迫害するのは、この世の人であるとともに、クリスチャンの兄弟姉妹であることが想像されます。これらは他の箇所に終末には”兄弟が兄弟を裏切り、死にわたす”と書かれていることとも符号します。

”しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

主が再びこの世へ来るのは”やもめ”にほまれを与え、そしてやもめを迫害する者にさばきを下すためです。しかし、その時、”はたして地上に信仰が見られるでしょうか。”と主はいわれます。これは何を意味するのでしょう。主は ”地上に信仰が見られるでしょうか。”といわれました。 ”天に信仰が見られるでしょうか。”といったわけではないのです。

終末は黙示録によれば、星の1/3が地に落ちる時です。星はアブラハムの子孫であるクリスチャンをさすたとえです。地に落ちた星、すなわちこの世のものとなった彼等には信仰をみることは難しいのです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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