通算No.85 マタイ24章の教会

テキスト; ”マタイの福音書 24:1、2 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」”

本日は”マタイ24章の教会”という題でメッセージをしたいと思います。マタイ24章は終末について主イエスが直接語られたことばを記してある章です。

この章を初めから終りまで読んでみて一つ気がつくことがあります。それは終末のことについて記してある章なのにその中に教会ということばが一度も出てこないことです。これはその次の章である25章を読んでも同じです。福音書では、”この岩の上に私の教会を建てよう”というようにイエスの時代にはすでに教会ということばはあるのに何故ここで使われていないのでしょう。

これは一体何故なのでしょうか。携挙のこと、また偽キリストのことなど、多くのクリスチャンと関係あることがこの章には記してあるのに教会ということばは一度も出てこないのです。これは平行記事である、マルコ13章、ルカ21章を読んでも同じです。これらの章にも全くこのことばは出てきません。

この事実に関して何か主が語ることがあるのでしょうか。それを見ていきたいと思うのです。

私はこのように示されます。主が聖書に書くことで何かを語るということは勿論あることです。しかし、時に主は当然書かれているべきことを故意に全く書かないことにより語りかけを与えようとされます。ここでは、教会ということばを終末に関する記述の中に全く含まないことにより何かを語ろうとしているのです。

それで、私たちは盲目なしもべとならず、主の語りかけを正しく読み取ることが大事です。私は主が
語っているのはこういうことではないかと思います。それは、教会ということばを全く書かないことにより、このマタイ24章の記事がたとえだと我々に気付かせるためではないかと思うのです。”教会”ということばは全く書かれていません。しかし、実は何か別のものをもって、たとえで表現されているのです。そして、私たちにこの隠れている教会のたとえを見つけるように主は導いているのです。

さっきまで子供達の声がしていた部屋へ行って見ると誰もいない、玄関から出て行った気配もない。”これはおかしい。どこかに隠れているな”と思うものです。探そうという気持ちが起きてくるものです。そして探したら押入に隠れていたりします。
主がここに全く教会という表現を書かなかたのは、私たちが教会のたとえに気付くため、そしてそれを正しく探し出すためなのです。
振り返ってこのことを客観的に考えてみましょう。この章に主があえて”教会”ということばを書かなかったのは何故でしょう。たとえば、以下のような理由が考えられるかもしれません;

1 この時代にはすでに教会が携挙されているから。
2 この章の預言はユダヤ人のみにむけられているから。
3 教会は他のことばに例えられ、比喩されている。

以上のどれが妥当でしょうか。考えてみましょう。

1 教会がすでに携挙されていることはもっとも望ましいことですが、しかし、どう楽観的にこの章のみことばを見てもありえそうもないです。何故ならここに書かれている、警告の多くは未信者ではなく、主を信じる人に対するものだからです。彼等が既に携挙されているなら、これらのことばは不要です。

2 この章の主の預言がユダヤ人のみ対象ということもやはり無理があります。何故なら、クリスチャンに関係することばが多く書かれているからです。偽キリストはクリスチャンに対応することばです。ユダヤ人はそもそもキリストを信じていないので、偽キリストが出てきてもだまされません。また、マルコ伝に”私は全ての人にいっている”と書かれています。すなわち、この章の預言はユダヤ人のみでなく、クリスチャンをも対象にしたことばなのです。

3 すると残りはこの答、すなわち、教会は他のことばに例えられているということになります。もし、教会が何かのことばに例えられているなら、どのようなことばでしょうか。

教会ということばは聖書の中でいくつものことばにたとえられています。たとえば、黙示録に記されている燭台です。それ以外にも多くあります。家、宮、都等です。ですから、このテキストに書かれている宮は教会の一面をさすたとえです。

宮とは神の前に犠牲をささげ、祈りをささげるところですが、教会のその面をさすたとえなのです。また”この神殿をこわせば、3日で建てる”といったと主を非難する人々に関連して、聖書ははっきりと”宮とはイエスのからだをさす”と記しています。宮はイエスの体ーみからだなる教会をさすのです。

ですから、テキストの宮の崩壊の預言は終末における教会の崩壊の預言なのです。

クリスチャンがイスラエルへ行くとき何といってもエルサレム、そしてその中心である宮へ行きたいと思うものです。しかし、現在その宮があった場所にはイスラム教の寺院が建ててあり、宮の建物はありません。正確には西の壁が少し残っていますが、ほとんど何も残っていないというのが、正しい表現です。

この宮は聖書の終末の預言の中で大きな位置を占めます。宮が崩壊する日が終末であり、また反キリストはこの宮の中に座を設けると書かれているからです。

しかし、現状は宮の崩壊どころか、宮そのものがないという状況です。宮がないだけなら、建てればよいのでしょうが、しかし、そこはイスラム教徒の3大聖地の一つなので、そんなこともなかなかあり得そうにないのです。ユダヤ人とイスラム教徒との間のちょっとしたもめごとも大きな問題に発展するからです。まして、彼等の寺院をこわしてユダヤ人が宮を建てるといって、スムースに行くとは思えません。

これは私の個人的な考えですが、私はこのことを通して神は我々に宮について何か語っているのではないかと思うのです。現在は終末にさらに近づいた時です。この時にもしすでにエルサレムに壮麗な宮が存在するなら、”エルサレム市内の宮が崩壊する日”は現実性があることです。また、今、ないとしてもたとえば建設中だとしたら、その日はまだ現実性があるかもしれません。また、まったく建設されていないとしても空き地ならまだ現実性があるかもしれません。

また、もし他の国の建物がそこに建設されているとしても、アメリカとかイギリスのように話せばわかる国なら少し現実性があるかもしれません。しかし、現状はどうでしょう。この場所はすでに何百年も前からイスラム教徒の聖地であり、金のドームが建っているのです。イスラム教徒のものであっても、銀行とか、学校とかなら、交渉も可能でしょう。しかし、これは彼等にとって、聖地であり、もっとも交渉が難しい場所なのです。

私はこのように感じるのです。このことを通して、神は”宮の崩壊”について、あくまで建設物にこだわらず、”たとえ”について気付くように我々に語っているのではないでしょうか。
かつての神の民、イスラエル人もメシヤの再来に関して正しく預言をとらえることができず、正しく王を迎えることができませんでした。彼等はメシヤに関してダビデの子、すなわちイスラエルの国を統治する王であると信じきっていました。彼等には旧約聖書の預言はそのように読み取れ、それ以外の解釈はありえなかったのです。この預言の解釈から、頭を切り替えることができませんでした。しかし、彼等の解釈は妥当なものではありませんでした。多くの人が信じていたけれど間違っていたのです。彼等はキリストに関するたとえを読み取れなかったのです。同じことが終末におきないでしょうか。警戒が必要です。

ますます終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

ー以上ー

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