通算No.84 真理といつわり

テキスト:ヨハネ8;45
”しかし、この私は真理を行っているために、あなたがたは私を信じません。”

本日は真理と偽りという題でメッセージします。

主イエスはご自分を”真理”であるといわれました。さて、主がご自分を真理であるといわれた時、どのような意味合いを意図していたのでしょう。本日はそれを考えてみたいと思うのです。

真理ということばは少し抽象的な日本語です。.反対語を考えればもう少し意味がわかりやすいかもしれません。真理の反対語は偽りや間違いという言葉です。

ですから、真理とは偽物ではない本物という意味合いです。さて、本物に満ちている世界ではこれは本物だといってもあまり意味がありません。たくさんの本物の100円玉が集まっているところに1枚100円玉を持っていって、これは本物だよといってもあまり人から感心してもらえません。しかし偽物の宝石ばかりいくつもある中に本物のダイヤが一つでも混ざっているならそれはたいしたものなのです。主はこのようにも言われました。

”ヨハネの福音書 18:37 ”わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。”

主がご自分は真理だといわれた時、この世が偽りに満ちていることを前提としていわれたのです。この世、また神の民の間に偽りが満ちていたからこそ真理であるキリストが来られなければならなかったのです。

消防自動車がサイレンを鳴らして走るのはそこに火事があるからです。同じように真理である神の子がわざわざこの世に来られなければならなかった理由があります。それはこの世に偽りが満ちていたからです。

さて、ヨハネ8章のイエスとイエスを信じたユダヤ人との対話から真理と偽りについて学びたいと思います。

”ヨハネ8;37ー59
37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。”

これらの記述に沿って真理、偽りということについて学びたいと思います。

”37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」”

この会話はイエスを主と信じたユダヤ人達との会話です。そして、主は他でもない彼等との会話の中で真理、偽りについて詳しく語られたのです。どうぞ、このことに注目して下さい。

偽りということば、トピックにもっともふさわしい人々は誰でしょう。またもっともサタンが用いる人々はだれでしょう。それを考えてみましょう。サギ師でしょうか。それとも感情的にだまされやすい女性でしょうか。

真理、偽りという話題、題目に関連して、主は”イエスを信じたユダヤ人”、すなわち、神の民ークリスチャンについて語っているのです。このことに主からの語りかけがあるのです。

偽りは勿論、この世にもあります。しかし、ここで主はイエスを信じた人々の間にある偽りについて語り、そして聖書はそれを特に強調しているのです。

ですから、我々はこれらの記述から語りかけを受けなければなりません。サタンの偽りは”イエスを信じた人々”を通して教会に働くのです。

”あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。”

ここでイエスと話しているイエスを信じたユダヤ人は今も教会の中にいるある種類のクリスチャンの型です。彼等は真のクリスチャンと共に教会に集います。しかし彼等には”わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていない”のです。その結果、彼等は、”あなたがたの父から示されたことを行なうのです。”
その結果、教会には彼等の父ーサタンのわざが増え広がるようになります。

そしてサタンのわざが巧妙なので、しらずしらずの内に教会内では、彼等ー悪魔を父とした人々のわざ、ことばの方が正しいかのような錯覚を覚えてしまうようにさえなります。

彼等のわざは教会の中に増え広がり、教会を変質させ、そして結果として終末における全面的な教会のさばきをもたらすのです。

このイエスを信じたユダヤ人について見てみましょう。彼等の以下のことばに注目してください。

”48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」”

彼等の言葉の特長は非常に理性的であり、常識的であり、人間的なものです。

彼等のことばと主イエスのことばとをこの世の人に比較させてみたならどうでしょうか。イエスのことばより、むしろユダヤ人達のことばに共感する人の方が多いかもしれません。逆にイエスのいっていることばの方が非常識にさえ見えそうです。そうです。彼等のことばはこの世の人には受け入れられるものなのです。

そして彼等のことば、考え、思考が教会の中で大いにサタンに用いられているのです。サタンは教会を攻撃するのに誰を効果的に用いるでしょう。彼は教会の中の人間的な人を用いてもっとも大きな成果をあげているのです。

この世の人も勿論悪魔の支配下にいます。しかし、教会のクリスチャンはこの世の人のことばをそのまま受け入れたりはしません。ですから、世の人の言葉は教会に大きな影響を及ぼすことはできないのです。しかし、そのクリスチャンも内部の人に対しては心を許します。

戦争の時、敵国を攻めるのには外から攻めるばかりが能ではありません。逆に内部に送られたスパイはもっと大きな働きをします。

教会の中にまかれた”毒麦”は”あなたがたの父”ーすなわち悪魔から”示されたことを行なうのです”
彼等は自分がそのようなわざをしているという自覚はないでしょう。ここで主と語っているユダヤ人達の中にも自分がサタンに用いられていると自覚している人は誰もいなかったのです。

しかし、どのような時でも主の語られたことに真実があります。主は明確に”主を信じている””アブラハムの子”ーすなわち信仰がある”といいながら、しかし、悪魔によって用いられてしまうクリスチャンについて語っています。

これらのことばは預言的なものであり、終末に至るまで続く教会の一面を表わすものです。このことをマタイ13章では、いくつかのたとえで表わしています。すなわち、たねまき、毒麦、からし種、パン種、良い魚悪いさかなのたとえ等です。

たねまきのたとえは、まかれた神のみことばは純粋で真実ではあっても、みことばを受ける全ての地がそれを正しく受けるとは限らないことを述べています。

30倍、60倍の実を結ぶのは、何分の1かの地、すなわち限られたクリスチャンです
たねまきのたとえに限らず、他のたとえも同じように2種類の神の民ークリスチャンについて語っています。

”39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。”

彼等は信仰の父であるアブラハムの子達です。しかし、彼等はアブラハムのわざを行っていません。逆にイエスを殺そうとしています。彼等は現在のどのような人々を表わすのでしょう。彼等は信仰があるといいながら、神の前に正しい行いがなく、逆にイエスの霊である、聖霊を殺す、すなわちみ霊を消すクリスチャンの型です。

44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。”

どうぞこの箇所で主が語っていることを正しく捕えてください。キリストはここで、主を信じるという人々の中に悪魔を父とした人々がいるといっているのです。彼等は教会の中の毒麦であり、行いがなく、罪の奴隷です。そして、”あなたがたの父の欲望”、すなわち、悪魔が教会の中におこしたいと思っている願いは彼等を通して成就するのです。
 
 彼等により教会は人間的な考えに満ちた集まりとなり、奇蹟は現在ではもう起きないものとされ、聖霊の働き、たまものは極端な教えということになりました。聖書の解釈は変形され、みことばは無力なものとなってしまいました。聖書の中の多くのことばが人間的な解釈によりその真意がゆがめられてしまったのです。このように彼等は用いられるのです。

”悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。”

悪魔がこのように多くの偽りを行う理由は何故でしょうか。それは一つの目的があるからです。すなわち、人を殺すためです。多くのこの世の人は彼の偽りにだまされ、進化論を始め多くの間違った考えの中で滅んでいきます。殺されていくのです。しかし、それにとどまらず、クリスチャンをもだまし、殺すのが、彼の望みです。歴史上、もっとも多くのクリスチャンが滅ぶ時はいつでしょう。それは終末の時です。この時、多くのクリスチャンがだまされ、滅んでいくのです。ですから、彼の終末に関する惑わし、用意は周到なものです。歴史の早い時期から、着々と根深くそして広範囲に用意されています。そして、それは毒麦を通して達成されるのです。彼等は”父の欲望を達成”するのです。

サタンのしかけるわなについて、考えてみましょう。エデンの園の時、サタンは神により人がどのような祝福を得るのか、当事者であるアダム、イブ以上に知っていました。それで、彼をたくみにだまし、堕落させ、死においやりました。

終末においても、同じパターンが繰り返されます。彼は終末における戦いで何が一番の重要ポイント、戦いの要であるかを、すでに知っています。それで、この戦いの始まるかなり前から、すでに情報戦をしかけているのです。我々はそのことを知らないとしても、サタンはこの日のために、着々と用意を重ね、環境を整え、情報を流し、宣伝を重ねてきたのです。彼の用意は周到であり、ぬかりはありません。

彼の力、方法を過小評価してはいけません。我々の最初の祖先は最初の戦いで破れ、祝福と命を失ったのです。人間的な言い方をするなら、イエスの時も同じです。敵が着々と旧約の神の民の上にまいた毒麦は神の民の間に広がり続けていました。彼等の間に神のことばはあるものの、それは骨抜きにされ、肝心なところを誤解させられていました。主がパリサイ人、律法学者に対して、”蛇よ、まむしの末よ”と語ったことを思い出してください。このイエスを信じたユダヤ人の父が悪魔であるといったのと同じ意味合いなのです。

その結果、神の民は真の神の知識、信仰に至らず、目の前に来られたいのちの主を認めるに至らなかったのです。そして、多くの神の民はエルサレムとともに滅んでしまいました。また、バビロン捕囚の時も同じです。悪魔の作戦は成功し、偽りはまんえんし、神の民はバビロンへ捕囚にされてしまいました。

敵は同じことをこの終末について、もっと大規模に計画し、そしてまさに実行しようとしています。偽りの知識を早くから神の民の中に広めています。これらはずいぶんはやくから知られているので、神の民にとってはもう既に神学であり、確信であり、また常識になっています。

確かヒトラーが言ったように、偽りでも100回、繰り返せば、真理になります。神の前にはそうではなくとも、人の前には真理になるのです。ヒットラーの時も、毛沢東の時もそうでした。何度も何度も繰り返され、皆の口からでるとそのことはいずれ人の間では、真実になるのです。

”彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。”

サタンは偽りの父であり、いつわりを行う者です。彼の力をみくびってはいけません。彼はエデンの園へやってきました。そこにはアダムとエバがいました。彼等は神から、一つの命令を受けていました。それは”園のどの木からとって食べてもよい。しかし善悪を知る知識の木からとって食べてはならない。それを食べる時、必ず死ぬ”というものです。

彼等はその命令を知っていました。しかし、サタンの惑わしは巧妙であり、彼等がサタンに惑わされた時、自分達を死に至らしめるその実が見るによく、食べるによく、賢くなるのにふさわしく見えたのです。

何といううまい惑わし手でしょう。サタンに惑わされた時、人は全く正反対のことを自らの手で行ったのです。自分を死、滅びに追いやる木の実を自らの手でとり、食べ、そして、結局滅んだのです。

ここに書かれていることは偽りの典型的なパターンです。このだますサタンとだまされる人という図式は人類の長い年月繰り返され、そして、終末に至るまで繰り返されるのです。1テサロニケにあるように、終末に滅ぼされる人達も同じように惑わしに入るのです。

”43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。”

これらのことばは預言的なことばです。末の日に不思議なことが教会でおこります。あまりにも偽りの教え、パン種が行き渡ったために、正しい真理に多くの人が耳を傾けることができなくなることです。また、正しい真理が教会内で話されてもそれが、真理であるために、人々がそれを信じることができなくなることです。これはイエスの時代、イエスとイエスを信じるユダヤ人との間におこりました。そして、このことは終末でも繰り返されます。

終末にはたしかに偽りが教会全体にいきわたります。神のみことばがあるのに、そのみことばさえ変形されているので、人々は警告に耳を貸さないということです。

イエスの時代の律法学者、パリサイ人達が目の前にイエスによる大きな神のわざを見ても、自分達の考え、教理をいささかも考え直そうとしなかったことを思い返して下さい。長い年月にわたる、彼等の神学、教理、これらは彼等にとって、確信、信仰になってしまい、彼等の考えを変えることは難しかったのです。しかし、実際は彼等の確信は誤ったものであり、真理に基づいていませんでした。サタンの策略、偽り、惑わしはいかに根深く巧妙かがよくわかります。

私たちは終りの時代に生まれ、この時代にクリスチャン生活をおくっています。これはどういうことでしょう。これはこういうことです。もし主の語られたパン種のたとえが正しいのなら、私たちはパン種がすでにすみずみまで行き渡った時代にうまれたということです。

そして、私たちは主イエスの弟子として、主の後を追うように召されています。主のなされたことには、もちろん伝道やいやしや預言等のたまものの働きも含みます。しかし、それとともにもう一つのことがあります。それは悪魔により曲げられたみことば、変形したもの、ないがしろにされたものを直し、真理を建てなおす働きです。

終末における主のみこころを行いたいと思います。

ー以上ー 

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