本日はバプテスマのヨハネという題でメッセージします。
聖書はバプテスマのヨハネについて多くの記述をしています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ4つの福音書が彼について書き、イエスご自身が彼について何度か言及しています。彼は聖書の中で大きな位置を占める人ですが、彼を通して聖書はどのようなことをかたるのでしょうか。それを見ていきたいと思います。
バプテスマのヨハネに関する記述を読む時、一つの特徴があります。それは彼に関する記述には終末に関することが多いということです。例えば以下の通りです。
”まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。”
”斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”
” 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。”
”見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。”
これらのことばは終末のさばきを予表しており、彼の働きはこれらのさばきと関係があるのです。彼の使命は民やパリサイ人やサドカイ人にこれらのさばきについて語り、彼等の心を神に立ち返らせることでした。
歴史上のバプテスマのヨハネを見るなら、彼はイエスの時代に殉教しています。しかし、また一面彼は終末、すなわち”主の大いなる恐ろしい日が来る前に”現われる預言者の型なのです。
終末のことを記してある黙示録をみると2つのことがわかります。一つは主の再臨の前に多くの神の民が神から離れ、滅んでいくということ。そしてもう一つはその中にも人々に警告を発する預言者がいるということです。黙11章に記されている二人の預言者がまさにそれです。
この黙示録の預言者をよく見るとバプテスマのヨハネと共通点があることがわかります。この預言者をよく見て下さい。彼等は終末の時の中で神のことばを人々に預言します。この二人にはモーセとエリヤの特長があります。そして彼等は殉教の死をとげます。
バプテスマのヨハネも同じです。彼はイエスのために道を備え、人々に悔い改めをうながします。しかし、全ての人が悔い改めるわけではなく結局、彼はユダヤー神の民の王であるヘロデにより首を切られ、殉教します。そして、このヨハネについてイエスは”きたるべきエリヤ”であると述べました。
バプテスマのヨハネと黙示録に現われる二人の預言者はとても似ているのです。終末の預言者の詳細に関しては黙示録の記述だけに頼っていては、はっきりしたことは見えてきません。しかし、彼等の予表であるバプテスマのヨハネに関する記事を読んでいくときこの終末の預言者について、はっきりした姿が見えてきます。
この黙示録の預言者について少し見てみましょう。
”ヨハネの黙示録 11:3ー5 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。”
この人達は預言者です。荒布は神のさばきと関係があります。ですから、彼等は神のさばきを警告するのでしょう。この人達は終末に現われ、神を証し、そして殉教します。彼等はどのような人々でしょう。この人達は個人をさすものではありません。何故なら、2つの燭台と書いてあるからです。黙示録の他の箇所では、7つの燭台は7つの教会をさすとのことです。ですから、彼等は2種類の教会、すなわち終末の時代においても真に神につく神の民のあつまりです。
そして、彼等はまた2つのオリーブの木です。聖書の中で2種類のオリーブの木について書いてあるのはロマ書です。そこにはもと木のオリーブと野性のオリーブについて書いてあります。これはイスラエル人と異邦人のことです。ですから、この2人の預言者は終末における異邦人の教会とイスラエル人の教会とをさすと思えます。そういえば、黙示録には2種類の144,000人の人々に関する記述があります。この2つの記述はどちらも同じ人数ですが、黙示録におけるそれぞれの記述の特徴はことなります。片方はイスラエル的であり、各部族の名前を記してあります。また、他方は新約的です。
さて、テキストのマタイ伝の各節を見ていきましょう。
”そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。”
バプテスマのヨハネは荒野で教えを宣べ伝えていました。荒野ということに何か意味があるのでしょうか。荒野の一つの特徴はそこが町の中ではないということです。終末の時代にはエルサレムの町ー教会には多くの罪があふれてくるかもしれません。しかし、この預言者はその中に住まず、それらから離れたところにいます。彼は聖別の歩み、聖徒の歩みをしているのです。
” この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。”
このヨハネについてはイザヤが前もって以下のように預言しています。
”イザヤ書 40:3ー5 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」”
また、マラキ書にこう書いてあります。
”マラキ書 4:5、6 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」”
ヨハネは立ち、神のために道を備えました。同じように終末の神の最後のさばきの日の前に最後の預言者がたちます。彼等の使命は神のためにその道を整えることです。さて、主の道を備えるとは何を意味することばなのでしょう。道に関しては主ご自身がこういわれています。
”ヨハネの福音書 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。”
主ご自身が道であり、この方を通して父なる神のもとへいけます。しかし、終末の神の民には問題があります。以前はまっすぐだった、神へ至る道が長い年月の間に変形され、曲げられ、低くされたり、高くされたりしているのです。それで、なかなか人々がその道を通って、真に神に出会うことが困難だということです。あまりにも道が変形されてしまっているので、神の民がみな迷ってしまい、真にいくべき所へなかなか行き着けないという状態なのです。
現在のキリスト教会の現状を見るとこのことばの通りであることがわかります。終末には多くの教える人がいますが、ある人は神のいやしなどもうないと叫び、ある人は預言の働きはもう終わったと語り、他の人は異言を語る人は教会にくるなと大声でいいます。このように正しい神の道は曲げられ、不必要に高くされたり、低くされたりして、誰も彼も正しいところへ行きつけず、迷ってしまうという状態なのです。
しかし、神は終末に関して預言を与えられました。それは終末に起きる預言者のことであり、彼を通して、”すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる”のです。
女が3斗の粉に混ぜたすみずみまで行き渡ったパン種の教え、反キリストの教え、これらが矯正される時がきます。これはエズラ、ネヘミヤ記に記されているバビロンから出てきた民が都や宮を再建する預言の成就の時でもあります。
彼等はかつてエルサレムの大王(キリスト)が建てた都を再建しました。同じように終末のリバイバルの中では、かつてペンテコステの時にあったように、正しい聖霊の働き、たまものは再現し、また、聖書の正しい真理も回復します。
”さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。”
この時、多くの神の民がヨハネのもとで、罪を告白し、バプテスマを受けたことがわかります。同じことが終末にも起こります。終末の日に、真に神につく預言者のもとで、多くの人々が神を知り、罪を告白し、また水のバプテスマ、聖霊のバプテスマを受けるようになります。
”しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。”
ヨハネのパリサイ人やサドカイ人に対する態度やことばは民衆に対するものと少し違います。ヨハネは彼等が実を結んでいないことを指摘しました。終末においてもパリサイ人やサドカイ人に相当する人々がいます。そして、彼等に関する終末の警告も同じです。すなわち、”悔い改めにふさわしい実を結”ぶことです。
”斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”
” 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」”
これは終末のさばきについて語っています。聖書の他の箇所では、終末に毒麦は終末に火で焼かれると書いてあり、淫婦バビロンは火で焼かれると書いてあります。これらのことばはこのヨハネが語ることばと同じく、終末のさばきをさします。ですから、この預言者の働き、終末のリバイバルには一つの特徴があります。それは終末における神のさばきに関して、正しく人々に警告するものとなるということです。
さて、このヨハネに関してもう一つ別の記述をみてみましょう。
”マタイ11:9ー20
9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
15 耳のある者は聞きなさい。
16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。”
上記の箇所を順にみていきたいと思います。
”でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。”
バプテスマのヨハネにより象徴される終末の預言者の働きは預言者以上のものです。預言者の使命はおもに神のことばに関するつとめです。しかし、終末の預言者の働きはそれにとどまらず、終末のリバイバルをもたらし、たまものを復活させ、正しいみことばを開きます。そして、彼等は殉教、携挙するまで神の働きを証しするのです。しかし、彼等は柔らかい着物をきた王の宮殿(直訳は家)の人ではありません。王は神の民の権威者、正統派を意味します。すなわち彼等は終末における神の民の正統派ではありません。
彼は預言者です。預言者とは何か。それはエリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等の預言者を思い出せばわかるように、神の民やその王の意見や考え、反対を恐れず、神のことばを語り通す人のことです。ですから、彼はその時の神の民の多数派でも代表派でもありません。かえって、その類の人に反対されたり、迫害されたりします。
”まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。”
女、すなわち教会時代の中におけるもっとも大きな働きはこの預言者を通して行われます。
” バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。”
終末の預言者によりおこされる終末のリバイバルは大きなものです。しかし、その後で、ゆり返しがきます。リバイバルの後は天のみくにー教会ははげしくせめられるのです。ヨセフの預言にあるように7年のききんがまもなくきます。
”ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。”
このいいかたはもってまわったような表現です。いわんとしていることはヨハネが最後の預言者だということです。彼は旧約の最後の預言者です。また彼はエリヤです。そして、教会時代の最後の預言者は黙11章に出てきます。
ですから、黙11章に出てくるエリヤ、モーセの働きをする最後の預言者達、彼等はまさしくヨハネによって予表された人々なのです。
”この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』”
この時代とはイエスの時代であり、終末の時代の予表の時です。”笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった”とあります。終末の預言者の働きの中で大きなリバイバルが起きます。多くの人が一時的には神に触れるでしょう。しかし、神の前に”踊る”、喜ぶことは長く続きません。また、弔いの歌、すなわち、終末における神のさばきを語った時、一時的には、悔い改めるかもしれません。しかし、その悔い改めも長くは続かないのです。
”それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。”
ここで主は多のく町々を責められました。聖書の中で町は教会をさすたとえであることが多いです。ですから、これは終末の多くの教会、人々への預言です。多くの人々は終末のリバイバルの中で多くの力あるわざをまのあたりにします。しかし、悲しむべきことは彼等の悔い改めは長く続かず、また世に戻っていきます。彼等の行いは変わらないのです。そのことを責められたのです。
もう一つの箇所を見ていきたいと思います。
マタイ17:9ー13
”9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた”
順に見ていきます。
”彼らが山を降りるとき”
この山は変貌山です。弟子達はここでモーセとエリヤに出会います。思い出して下さい。黙11章に登場する預言者達にもモーセとエリヤの特長がありました。そして、話題はバプテスマのヨハネのことに移ります。
”そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた”
これらの記述を通して、聖書はバプテスマのヨハネこそきたるべきエリヤ、そしてモーセ、すなわち終末の二人の預言者であることを暗示しています。
この終末の預言者には3人の名前が関係してきます。それらはこの終末の預言者の
働きを示すものです。
モーセ: モーセは民を出エジプトさせました。同じようにこの預言者も多くの人をこの世から救います。
エリヤ: 彼はバアルの預言者と違い、天から火を呼び下します。これは聖霊ーリバイバルの火の予型です。バアルの預言者は別の種類の働き人の象徴です。彼等も一生懸命火を求めますがそれは下りません。そして、彼等は終末には裁かれます。
ヨハネ: 12弟子の中で、主に最も愛された弟子もヨハネという名でした。ですから、終末の預言者も主のもっとも愛された弟子です。
”そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」”
律法学者たちは”まずエリヤが来るはずだ(しかしまだ来ていない)”と言っていました。
同じように終末の聖書学者達も、主の日の前には黙11章の預言者達が来るはずだ、しかしまだ来ていないからまだ主の日はこない、そのようなことをいうようになるでしょう。彼等は正しく聖書を読み取ることができず、その結果自分に滅びをもたらすのです。
”「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。”
終末の預言者、リバイバリスト達は曲がった道を直し、正しい全ての真理、働きをたてなおします。
”しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです”
バプテスマのヨハネは実は預言されたエリヤでした。しかし、彼等はそれと認めませんでした。終末にも同じことが起こります。終末の預言者は聖書学者達には、それと認められないのです。正統派の教会、信者にも認められないかもしれません。
そして、ヨハネがヘロデ王のもとで首を切られたように、この時多くの神のしもべが殉教するでしょう。これは、”あなた方を殺す者が自分は神に仕えていると思う時”です。また、兄弟が兄弟を裏切るときであり、エドムが弟を死に渡す時です。淫婦バビロンで聖徒の血が流される時です。
”人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」”
主イエスはヨハネのように律法学者たちにより苦しめられました。これもまた終末の型です。終末には主の霊である聖霊は聖書学者達のゆえにその働きをとどめられ、教会の戸から出され、霊的には十字架につけられた状態になると思われます。黙11章にこのことが記されています。
しかし、我々はこれらの中でも主のみこころを行っていきたいと思います。
ー以上ー
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