通算NO.80 たとえを聞きとる

テキスト:”マルコの福音書 4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。”

本日はたとえを聞き取るという題でメッセージしたいと思います。上記のテキストに沿って話したいと思います。
さて、このテキストでわかることがいくつかあります。

”イエスは、このように多くのたとえで”
一つはイエスが多くのたとえで話されたということです。これは福音書の中のいわゆる”たとえ話”に限りません。それこそ創世記から黙示録まで多くのところで神はたとえを使われています。このことは決して不思議ではありません。何故なら主イエスはかつて聖書について”私について証するものである”といわれました。全聖書は主を証するものなのです。ですから、主イエスは福音書の中だけでのみ我々に語っているのではなく、他の箇所でも多くのたとえを通して我々に語っておられます。

”彼らの聞く力に応じて”
もう一つのことはイエスがそれぞれの人の聞く力に応じてたとえを語られたということです。このことは主イエスがそれぞれの人のたとえを聞く力は異なることをよく認めておられたからです。

たとえを聞く力は人によって異なる。これが聖書の語っている真実です。我々はこのことをよく記憶せねばなりません。

ある人ががたとえを聞く訓練を今まで特にしたことがないなら、その人の聞く力は決して高いものではありません。何故ならたとえを聞き取る力は意識して訓練してはじめて少し進歩するものだからです。

たとえば、英語の聞きとりのことを考えてみましょう。普通の日本人が外国語を聞きとる場合、意識した訓練が必要です。何か月、何年と訓練して初めて多少でもききとれるようになるのです。ろくすっぽ訓練したことがないのに外人のことばを”通訳”しようとするのは危険です。多くの間違えを犯す可能性があります。

同じことがたとえについてもいえるのです。

人々のたとえを聞く力は異なります。そしてこの聞き取る力が異なるために多くの”論争”がおきます。パウロは聖書を読み、また聖書の中にたとえ、奥義として書かれている”信仰による義”を始め多くの真理を正しく読みとっていました。彼のたとえを聞く力は高かったのです。彼の力は高く、神によって用いられていました。彼の書いた書簡が今でも多く残っていることがその証拠です。

しかし、これはあくまで神の前の真実です。彼は多くの人の前では別の評価を得ていました。同じ聖書を読む多くのユダヤ人は彼を異端者あつかいし、排斥し、迫害し、命をとろうとさえしました。

彼等はパウロが持っているのと全く同じ聖書を持ち、読んでいました。しかし、彼等のたとえを理解する力は低く、また自分がたとえ、奥義を理解していないことさえわかっていませんでした。彼等にはこの律法の記述に満ちた旧約聖書の結論がどうして”信仰義認”になるのか理解できなかったのです。しかし、これは”聞く耳”の差なのです。

彼等はパウロの助けにならなかっただけではありません。真正面から彼にぶつかり、神のわざをとどめていたのです。この事実は我々に語るものがあります。

多くの人はこれらが起きたのは使徒行伝時代のことであり、現在は関係ないと思うかもしれません。

しかし、これらのことは現在の我々への警告として書かれたものです。パウロの時も現在も聖書は相変わらず、たとえの書であり、このことに何の変わりもあるわけではありません。そして、パウロの時も今もやはりたとえを聞き取る力は人により異なるのです。ですから、もし私たちが正しく聖書の奥義を求めるつもりがあるならこのことの訓練を怠るべきではありません。
 

特に終末に関しては驚くべき多くのたとえが聖書に隠されており、多くの預言書が口をそろえてこの時に関する警告を発しています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルそして他の預言書です。

私たちはこれらのたとえを正しく読み取り、主からの警告を忠実に述べ伝えたいと思います。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

ー以上ー 

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